先日、全駅下車を達成している横見浩彦 氏と少し話をした。

 前々から、仕事面で面識があり、今回めまぐるしく変わった身辺の変化を中心に長々と話をした。


 鉄道を生業にしているという意味では先輩なのだが、正直に言うと、横見氏はどちらかというと苦手な人の部類に入る。だから、初対面のときは、どう話をしてよいのか、非常に困った。


 それでも、何度か会って話をしていると、持っている力を感じざるを得ない。


 確かに、マンガで出てくる氏の行動は、とても大人気ない。

 実際の氏の行動はさらに超越している、とも言われる。


 横見氏は何十年という歳月をかけて、愚直に、ただ駅を降りることだけに情熱を傾けてきた。

 当然ながら、周囲は氏の行動を奇異の目で見ただろうし、陰で嘲笑したことだろう。いや、面と向かって罵倒した人だっているに違いない。



 しかし、実際に真剣なまなざしで鉄道を語るとき、その目には鉄道に対する愛情というか、それを超えたモノがある。

  

 そもそも鉄道オタクではない私にとって、その鉄道オタク振りは、ちょっとついていけないところが多い。それでも、なにか、ひとつのモノを見続けてきた歴史の証言者としての重みを感じることが、込められている。


 全駅下車が偉業であることは間違いないけれど、そうした偉業がすごいのではない。、名状しがたい鉄道への情熱は何かを感じさせる。


 うまく言葉にすると、かえって薄っぺらくなりそうで失礼にも思えるので、あえて言葉にすることは控えるが、そこには、やはり、数十年をかけて実践してきた全駅下車という歴史の重みなのではないかと思うのだ。


 


赤い都電


 都電を追いかけ始めて、そろそろ8年目から9年目に突入しようとしている。

 

 都電が経てきた紆余曲折は、ボクが生まれる前から幾度となく起こり、そして沿線の人々の思いは、歳月の経過とともに薄れていく。


 都電の記憶は片隅に埋もれていくが、それでも都電への思いは少なからず継承されていく。


 続けることで積み重ねる。

 歴史の重みは歴史を体験してきたものだけが持てる特権でもある。


 追いかけつづけてきた都電は、どこまでわかってきたのだろう? どこまで自分は吸収できたのか?

 夕日を浴びながら眺めつつ、そんなことを思う、都電9年目に突入する。