三越百貨店の起源をたどれば、江戸時代に三井高利が起こした三井呉服屋に行き着く。
 三越百貨店は三井財閥の流通を担う中核企業であり、三井越後屋を縮めて三越百貨店と名づけられた。

 もともと、三井財閥は福沢諭吉による薫陶を受けている人材が多く、そのため慶應義塾大学出身者は重宝された。

 阪急電鉄を興す小林一三も慶應義塾大学から三井銀行に入行した一人だ。

 現在でも、瑞頭式ホームとしては日本最大である阪急の梅田駅は、官営鉄道の大阪駅に対抗して建設された。そのため、大阪駅ではなくあくまで梅田駅でなければならなかった。

 以前にも触れたが、小林の官からの独立精神は強く、現在でも阪急電鉄はJRとの乗り換えアナウンスを流さない。


阪急梅田1

 こうした小林の独立精神を支えたのは、小林が持つ誰にも真似できない先見性と独創性と行動力だった。

 小林は駅を、ただの駅とするだけではなかった。

 せっかく駅に人が自然と集まるのだから、駅に百貨店機能を持たせてしまえば、乗客の利便性も向上するし、自社にとっても利益になると踏んだ。

 とはいえ、鉄道会社の阪急には、百貨店経営のノウハウがない。
 そこで、梅田駅内に百貨店をつくる際に、小林は三越百貨店の支配人だった日比翁助に助力を求める。


阪急梅田2


 本来ならば、商売敵になるであろう小林の申し出を快諾した日比翁助は、三越が持つ百貨店経営のノウハウを小林と阪急に一から教えた。後に、白木屋を梅田駅のターミナルデパートに仮入店させて、ノウハウを学んだとされている阪急だが、三越から学んだ手法はかなりあった。

 こうして、阪急は日本初のターミナルデパートを開店させる。

 阪急は電鉄会社であり、当時はまだ路面電車とさして変わらない扱いだった。
 今でも、梅田を基点に三宮や河原町に路線を伸ばしているが、阪急が担っていたのは都市交通にほかならなかった。

 日比翁助は高橋義雄から受け継いだ市内交通の重要性と先見性を熟知しており、だからこそ小林の申し出を快諾したのではないだろうか。


阪急梅田3


 梅田駅は駅とは思えない絢爛豪華な装飾が施され、西洋建築が取り入れられた。
 この華やかな内装に、当時の大阪市民は驚いたに違いない。

 ハイカラを演出した阪急百貨店は三越百貨店と同じように、大阪のブランド百貨店に成長していく。

 駅を、ただの交通機関と捉えるのではなく、商業の基点、そして文化装置として捉える発想は、まさに三越百貨店の遺伝子だと言っていい。
 
 
 人々は電車に乗って三越百貨店に買い物に行くというライフスタイルをつくり出し、そのライフスタイルがさらに市内交通・都市交通を発達させたのである。

 阪急のデパート進出にほかの電鉄会社h冷ややかな目線で見ていた。

 しかし、その後、南海を除く大手私鉄はこぞって百貨店を沿線に開店させた。

 こうして多くの鉄道会社は阪急に倣い、系列の百貨店を持つことになるが、三越百貨店が市内交通・都市交通に与えた衝撃は、かなり大きかったと言えるだろう。それが今もなお三越百貨店を高級百貨店とする源流になっているのである。


(おわり)