全国に津々浦々敷設されているJRの線路の大半が、旧国鉄に属していたことは、鉄道を利用している社会人だったら当たり前のように知っている。

 その敷設した線路を巡って、時の首相・大隈重信でさえ「あれは歴史的なミスだった」と国会答弁で過ちをミスを認める事件があった。


 鉄道を運行するにあたって、重要な要素のひとつに軌間と呼ばれるものがある。

 通常、鉄道は2本のレールを1組の線路として構成しているが、このレールとレール間隔が「軌間」と呼ばれる。


 大隈重信が過ちを認めてしまったのは、この日本の鉄道における軌間についてだった。


 新橋(現在の汐留付近)-横浜(現在の桜木町付近)が日本の鉄道として開業して以来、日本は軌間を1067ミリメートルと定めた。鉄道の軌間には、大別して1435ミリメートルの広軌と1067ミリメートルの狭軌がある。


 日本の鉄道の父とも称され、日本最初の鉄道を中央線と決めていた井上勝は、明治政府が計画していた中央線案に反対して東海道線敷設案を主張して譲らなかった。新政府の軍部は海沿いの東海道では、外国船が襲来した時に狙い撃ちされるという理由から中央線を主張した。しかし執念が実り、政府の中央線案を覆させて井上は東海道本線を実現させた。


 井上はロンドンに留学していた経験からも鉄道の力を熟知していた。だからこそ、最初に建設されるべきは中央線ではなく東海道線だと主張したわけだが、そんな鉄道の先進性を熟知していた井上でさえ

「日本に広軌は適さない。狭軌を採用すべし」

と主張していたとも言われる。広軌の方が輸送力も多く、高速性にも優れていることは明かだった。それでも、鉄道を敷設するにあたって、明治政府は1067ミリメートルの軌間を採用した。



井上勝像



 当時の政府には十分な線路を敷くだけの資金がなく、安価で建設できる狭軌を採用したかったという事情があった。

 さらに日本は国土が狭く、線路を敷設できる平地がわずかしかないという事情を鑑みて、政府は狭軌を採用する決定を下したのだった。東海道線の原型となる新橋-神戸間は早急に建設されたが、資金力のない政府には東海道線を建設するのが精一杯だった。


 鉄道が建設されると、瞬く間に人々は鉄道を利用するようになる。鉄道は金の成る事業だということがわかった多くの実業家たちは、チャンスを逃さず、我先にと鉄道事業の出願を政府に申し出る。


 民間の金で、全国津々浦々に鉄道を敷設できるというメリットは政府にとってもありがたかった。

 井上勝は「鉄道は国有であるべし」として主張して譲らなかったが、議会は私鉄の有力者の意を受けて当選した議員たちばかり。私鉄建設案を反対する術はなかった。


 政府は私鉄の出願を許可した。そのときに発足した私鉄は、政府が定めた41条からなる私設鉄道条例によって運行が管理・統制されることになっていた。私設鉄道条例の中には、


・軌間は1067ミリメートルにすること

・官営鉄道と接続すること 

・乗り入れる際の運賃は官営鉄道側に決定権があること

・戦時や非常時に関係なく、政府が決定した武器輸送を優先させること

・敷設から25年以上経過したら官営鉄道の裁量で自由に買収できること


 などが盛り込まれていた。

 まさに、明治政府の都合のいい内容ばかりが並べられている。こうしたことが、鉄道は国策会社と言われる由縁になっているわけだが、ここではそうした側面はひとまずおくとして、厳しい条件であったにも関わらず、全国各地に鉄道が敷設されていった。


 厳しい条件の中、山陽鉄道(現・山陽本線)や関西鉄道(現・関西本線)、九州鉄道(現・鹿児島本線)といった大私鉄が発足し、山陽鉄道などは中上川彦次郎という社長の手腕によって日本初の食堂車を登場させたり、夜行列車を運行するなど斬新なアイデアを盛り込んだ列車を運行して、かなり好評を得た。


 こうして鉄道ブームは収まるどろこかますます過熱していく。しかしそれらの鉄道会社は、その後に施行される鉄道国有法によって国鉄に組み込まれてしまう。まさに私設鉄道条例に盛り込まれていた通りの結果に終わってしまうのである。


(つづく)