日本の歴史に燦然と名を残した渋沢栄一。


 大実業家だった渋沢が残した企業は、第一銀行、王子製紙など500以上にもわたる。


 そんな渋沢は実は、鉄道にも大きな関心と興味を示し、日本鉄道(現・JR東日本)の経営にも参画している。また、以前にも触れたが、都電の線路を本郷通りに敷設する際も尽力している。


 明治維新によって、各地で線路が敷かれるようになったものの、当時は東京よりも人口も多く、経済の中心地だった大阪-京都を結ぶ鉄道は官営鉄道(現・JR)しかなかった。そんなことから、関西財界人たちは、官営鉄道が走っていない淀川東岸に電車を走らせようと考えた。まだ、官営鉄道が「汽車」だった時代に、国の力ではなく、あえて民間資本による「電車」を構想した。


 こうして設立された京阪電鉄は、現在のような鉄道ではなく、路面電車として建設された。そして関西財界とはまったく関係がない渋沢栄一も京阪に多くの資金を提供している。

 

 渋沢は鉄道が持つ公共輸送の力を、そのうち民衆が鉄道を利用して移動するという人の流れと時代の流れを見抜いていたに違いない。だから、自分には関係がない京阪にも出資したと思われる。


 ホームで周囲の迷惑も顧みずに写真を取りまくる鉄道マニアとは大きく異なり、渋沢はあくまでも鉄道を建設・経営するマニアだった。


 渋沢の鉄道マニアとは一線を画すマニア振りによって、日本は一気に近代化していくことになる。都電の飛鳥山電停付近に別荘を建てた渋沢栄一の目に都電が走る光景は、近代化日本の象徴のように見えていただろう。


 今、渋沢栄一の別荘地前の線路ははがされ、少し離れた荒川線だけが残っているのみである。




           渋沢栄一像