幼児期に、感じていた寂しい思い。

その正体は、何なのか。
それは、私には心許せる友達が作れないことに気づく。

私は、いつも大人の中で育った。同級生や年下の連中と遊ぶこと
を母親から禁止されていたのもあるが、私の性分として協調でき
ないことが、結果を出す。

私の寂しい気持ちは、弟が生まれることで輪をかけて促進される。

この日から、ついに私は1人になった。

両親は、弟につきっきりになり、あからさまな差別を受けることに
なる。

この頃から、両親との思い出が、ほとんど無い。
急遽、幼稚園に入れられるのも、この頃である。

祖母の家の近くにある私立幼稚園に入園するのであるが、その理由も
悲しい。

弟の面倒をみるので、迎えにいけない時は祖母の家に行け。との事。
4歳の私が、見知らぬ土地で、知り合いもいない中、そんな事できる
はずもない。地図も無いから、頼るものは何もなかった。つまり、
不可能なのだ。

だが、母にとっては弟がいるので私は、どうなっても、そう問題が
無いのだ。何度も泣いて、

『それは、できない』

と言った私は、ヒドク叩かれ人聞きが悪い馬鹿な子というレッテルを
貼られた。何度も何度も、すがった。
知らない街に1人で放浪するなんて、4歳の幼児には死を意味している
のに等しいからだ。叩かれても、罵られても、すがったがダメだった。

もう、諦めるしかなかった。(結局、クラスメイトのおばさんに助け
られ、問題はなかった。)

それでも、私は母親を信じていた。

私は、大切にされていると信じていたのである。そうでないと心が
壊れてしまうと自己防衛力が働いたのだと思う。



それも、揺るぎ始める日々が始まる。

暴力

よく聞く話だが実際3歳、4歳の子供にとっては生きるか死ぬかの
問題だ。私の母は、豪腕なのだ。そこらの中学男子では、腕相撲で勝
つことはできないくらいの豪腕だったため、なおさらである。

数え切れないほどの事件を記憶しているが、本格的に暴力が始まる
きっかけになったものだけを書くことにすると。。。


前回にも書いたが、オットリしていた私は、人より字が読めるように
なるのが遅かった。
周りの子供が字を読んでいることを知った母親から、毎日、殴られた。
手ならいいが、ひらがなが書いた積み木で、来る日も来る日も殴られ
逃げられないように、部屋の隅で殴られた。


地獄だった。


アゴをやられて、脳震盪を起こしたことも。
耳をやられて1週間片方の耳が聞こえにくくかったこともあった。

その度に何度も謝った。死ぬほど悔しかったが死ぬよりマシだった。

その頃から、180cmもある父親も私に暴力を振るうようになった。


コンクリートに投げつけられたり、庭の木にパンツだけで、くくりつけ
られたり、雪の降る中、パンツだけで朝を迎えたり。

何度か、本当に死ぬと思った。


こうやって、私は変わった。 

『ヤラないと、ヤラれる。』

当時、カトリック系の幼稚園で習ったイエスキリストに本気で祈りを
捧げていた。

『朝起きたら、身体が大人になって、対等に戦えますように。』
           『1』

まずは、前回から執筆が遅くなったことを反省したい。

私の性分として、猛烈にズボラな所がある。ホントに直したいのだが、たぶん生涯付き合う
ことになるのだと諦めている。

前回の続きを始めることにする。
なにわともあれ、無事、生まれてきた私だが自我が芽生えるのがヒドク遅かったので、0歳の
記憶は無い。大人しい幼児であったことだけは間違いない。

少し、時間を進め3歳になる頃に祖母が他界してしまう。かなり、不摂生な人だったそうだ。
ついでなので、話はそれるが、少し祖母(父方)の話をしておこう。

祖母は、アル中でポケットウイスキーを持ち歩くぐらいの酒好きだという話も聞いた。
面白そうに聞こえるが、京女独特の表裏を使い分けるタイプで非常にしたたかだったらしい。
とりあえず、肝臓ガンと脳や心臓の疾患も重なり亡くなってしまったそうだ。

不思議だが、33年間、父親の口から祖母の話を聞いたことは無い。聞くと機嫌が悪くなるの
と、それほど聞く必要も無いので、永遠に聞かないと思う。
とりあえず、我が家の7不思議の1つと言っても良いだろう。

本その祖母は、子供たちから全く慕われてないどころか、嫌われていたようだ。
死に目に駆けつけたのは、なんと、嫁姑問題を繰り広げていた母である。不思議なものだ。
あとから言うには、『誰も来ないし、一応、長男の嫁だから仕方なく。』と言っていた。
ま~、ど~であれ、父親の家庭事情は良くなかったことは察しがつく。

私の話に戻ると、呑気に遊んでいた。イヤ、遊びに連れまわされていた。
旧国鉄で働いていた祖母に職場を連れまわされていたり、田舎を単車で走り回る母に単車の
カゴに入れられてニケツしたり。。。

愛情を注がれていたが、どこか3歳児に対する接し方が間違ってると思うのは私だけだろうか。
私の周辺は、激動の日々だったと思うが、それに気づかないでいた呑気な3歳児だった。

そうそう、私が初めて、頭を割ったのもこの歳の夏だった。
打上花火を見に行ったが、近くの花火だったので、見上げ過ぎて後ろに倒れたのだ。
私は、本当にのんびりしていたのだ。この点は、父親の性格を引き継いだと思う。

私は、幸せだった。たぶん。でも、どこか寂しい思いもしていた。
その頃は、わからなかったけれど何かに恐れていたのかもしれない。

そして、その感覚が現実に来てしまう。
             「0」

 この話を書く前に、一つ断りを入れたい。

 必ずしも、事実どおりの話では無い。
もちろん、できるだけ嘘なく私の人生を書くつもりだ。
とは言え文才があるわけもないので、寛大な心で読んでもらえると助かる。

 7月16日、祇園祭りの事実上のクライマックスである宵山の日に生まれたのが、
私だ。

 複雑な事情を持つ父と、複雑な家庭環境で育った母の間に生まれた。

至極、期待されて生まれたことは、後々の人生でも感じることになるが、本当に
期待を背負って生まれたのだと思う。

 まずは、0歳の頃の話から始めよう。私は、母親の生まれ育った地方の田舎町の
公立病院で生まれた。生まれたばかりの私は、今と同様、大きな頭の猿の子供に
ソックリな男の子だったそうだ。父親は、今でも

「猿みたいな顔して生まれてきやがって。」

と冗談交じりで私をからかう事があるので、相当インパクトが強かったのだろう。

 0歳の私は、目も口も大きくて今では考えられないが、そこそこ可愛い赤ちゃん
だったそうだ。目はともかく、口が大きいのは、父親の母である祖母の影響だと
考えられる。母親は、それが、気に食わないようだ。

話は変わるが、恥ずかしい話、私は祖母の顔を記憶していない。3歳まで共に
暮らして、私を可愛がってくれていたはずなのに、申し訳ない。なにぶん、
赤ちゃんだったので許してくれていることだと思う。

 その祖母は、私のことを溺愛してくれていたそうだ。
 わたしが喜んだからなのか私を抱いて振り回した結果、当時流行りのサイド
ボードに私の顔面をぶつけてしまい、その時の傷跡が私の唇の上に残っている。
その傷が私と祖母の関わりを知る唯一の証だ。今の私と同様、調子に乗るタイプ
だったのかなと想いを巡らせることがある。

 私の母親は、父親の母とソリが合わなかったようだ。いわゆる、嫁vs姑問題が
我が家でも勃発されていたのだ。私の父親は、傍観者的な要素があるため、どちら
の立場にも肩入れしなかったのだと思うが、母親は、その事についても30年間も
父親を責め続けている。正直、ソロソロ許してあげてほしい。

 なにはともあれ、第1子としての期待と愛情を受けながらも歪んだ母親の感情を
無防備に受ける人生を歩みだした。