人間は不遜になりがちなので、身体の弱い人やお年寄り、子どもに何かをするとき、「してあげている」という感情が無意識にはたらきがちだ。
私の母は呼吸器の大きな疾患を長年抱えており、普段の呼吸すらままならない状態で、常に多量の酸素を吸って毎日を過ごしている。
今日も寝る前の着替えを終え、ベッドの上で大きく肩を揺らして息をしている母のつらそうな様子を見たら、ふと涙がこぼれて止まらなくなった。
「こんなにしんどそうで、かわいそう」
その気持ちが一番大きかったが、中には、
「こんなつらそうな様子をそばで見ているのがつらい」
「どうして私だけこんな思いばかりしないといけないんだろう」
そんな、漠然とした絶望感や宛のない怒りのような感情も渦巻いて涙が次々あふれてきた。
そんな私を見て、母はわたしの手を握ってしっかりと目を合わせた。
「大丈夫」
安心させようと、はっきりとした口調で言う。
「お母さんは、大丈夫」
その顔は、先ほどまでの苦痛に歪んだ表情ではなく、幼い頃によく見た、気の強い、気丈な母の表情だった。
握られた手は温かく、力強い。
私は母の愛の大きさと、自分の弱さを感じ、さらに泣いた。
それを見た母は、「なんでなんよ」と笑った。
病を抱えた家族をもったことのある人は分かると思うが、
病気になって心身ともに一番つらく苦しいのは間違いなく本人だ。
けれど、その本人と共に時間を過ごす家族は、別の意味でほんとうの本当につらい。
時には全部投げ出したくなることもある。
怒られてしまいそうだが、何度消えてなくなりたいと思ったか、分からない。
友人からも、親のことなんて放っておけばいいのに、と言われたことも何度かある。
実際にそういう選択肢もあるんだと思う。
わたしには、選べない。
けれど、その選択肢を選ばないからといって、進んでつらい思いをしたいわけではない。
病と闘っている人は、ほんとうに強い。
わたしが母のお世話を朝から晩までいろいろとしていて、
冒頭で述べたような、「してあげている」的な気持ちになることは日常茶飯事だ。
そのために不満が溜まり、気づかぬうちに態度が大きくなって、しんどい母にあたってしまい、後から自己嫌悪に陥ることもいっぱいある。
それでも母は、そんな私がメンタルを浮き沈みさせている間も、365日24時間年中無休で身体のつらさと闘っている。
そのうえで、家族を安心させようと振る舞うのだから。
ほんとうに強くて、尊い、と思う。
昔、ボランティアをしていた大学の先輩が、
「ボランティアで人を助けているようで、実は自分が助けられているんだよね」と言っていた。
そのときは、その意味がよく分からなかったけど、今なら分かる気がする。
母の看護をして、
たしかに、毎日に時間的制約が掛かったり、
自分の思うように働いたり、遊んだり、出かけたりできなくて不自由はある。
けど、ほんとうは、自分が母を助けているつもりが、自分のほうが助けられていることも多い。
そう感じる瞬間が看護をしている中でいっぱいあって、
そのどれもが、他のどんな経験からも感じたことのない、自分を深く揺さぶる感情だ。
それは感謝とか、愛情とか、そんな端的な言語では片付けられない。
もっともっと、自分にとって大切で、とくべつなもの。
今日の、あの気丈な母の顔を見て、そう思った。
