どん底 | 戸田学の映画誌

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映画を中心とした事柄をあれこれ書いてゆく雑記帳です。

「黒澤明 ―生誕100周年記念― 29作品一挙上映!」。

「どん底」は、帝政ロシアを舞台にしたマクシム・ゴーリキーの戯曲の映画化である。

舞台を江戸末期の貧乏長屋に移している――。

黒澤は、ロシアではたいへんに評価されている。なにしろ「白痴」(51)、「どん底」(57)、「デルス・ウザーラ」(74)と3作品もロシア文学を映像化しているのだから――。



黒澤版「どん底」がすごいのは、今でいうシネマ歌舞伎の演出法をすでに試みているところにある。

松竹が開発したシネマ歌舞伎は、ハイビジョン映像のマルチ画像で歌舞伎の舞台を収録し、それを編集している。舞台鑑賞では味わえないクローズアップ映像も含まれてはいるのだが、しかし、まるで劇場にいると錯覚するような臨場感が味わえるのである。



黒澤明がマルチキャメラ――数台のキャメラで同じ映像を撮影する――での撮影を始めて試みたのは、「七人の侍」(54)の決闘場面であった。これは撮り直しが利かないことからの現実的な処理としての使用であった。

効果は絶大であった。以後の作品では、この撮影方法が使われることになった。

もうひとつは、望遠レンズでの撮影である。これによって、映像に奥行きが出せることに加え、役者にキャメラを意識させることなく芝居をさせることができる。

黒澤明は、撮影までに念入りにリハーサルすることが知られているが、これによって、役者の芝居の部分では演劇的効果を最大限に引き出せることが可能になった。

それにこの映画は、途中まで長屋内からキャメラが出ることがほとんどない。

これはのちに「天国と地獄」(63)での、前半の三船敏郎演じる横浜の権藤邸室内からキャメラが出なかった演出法の先例をいくものであろう。

「天国と地獄」のときは、閉そく感が見事に観客に伝わった。「どん底」も、息がつまりそうな貧乏長屋の閉そく感が主要なテーマである。

ある場面では、登場人物全員が長屋内から姿を消し、今、人物が出て行った戸障子の紙がパタパタと風になびく映像をしばらく映したりするのだ――これはすごい!



「どん底」の主要舞台は、江戸時代の棟割長屋である。かなり汚い。そしてかなり大きな作りで、長屋の一軒、一軒の敷居を取り除き、広い広い舞台となった。そこで複数の役者に芝居をさせてゆく。

この役者の集め方が面白いのである。

映画俳優はもちろんのこと、新派、新劇、歌舞伎、軽演劇といったジャンルの異なる俳優陣を一堂に集め、ごった煮のアンサンブルで演じさせている。これが面白い。



撮影を前にして、黒澤は落語の古今亭志ん生をスタジオに呼んで、江戸貧乏長屋の物語である「そこつ長屋」を口演させている。つまり「こういう世界を描くつもりだ」という意味である。スタッフ・キャストは真剣である。笑い声は起きない。志ん生は、あとで「あんなに受けなかったお座敷はねえ」という意味のことをいったそうだ。そこらがいかにも志ん生らしい。



映画が始まると、崖の下からの風景。画面の左側に祠が見える。ゴ~ン!と鐘の音が聞こえ、「どん底」というタイトルが入る。キャメラはゆっくりと右の方向へ移ってゆく・・・黒ずんだ蔵が見える。その間、鐘の音が一定的に鳴り、スタッフ、キャストの名前が表示されるのだが、鐘の音以外の音楽はない。

キャメラは回りながら、だんだんと下へ下がってゆく。360度回った時点でさきほどの祠あたりで小僧が二人掃き掃除をしている。「どうせ掃き溜めだ!」といって、二人は籠の中のゴミをがけ下へ振り落とす。

ゴミ――落ち葉などが――は、いまにも倒れそうな(何本もののつっかえ棒がしてある)長屋の屋根へと落ちる。そして、どん底の生活である内部の模写である――。



床は藁が散らばっている。画面奥で桶をさわっている田中春男の辰(桶屋)。

画面の手前では、清川虹子のお滝(飴売り)と千秋実(殿様)が雑吸のようなものを口に運びながらしゃべっている。「ほ~ん、それで?」「だからさ、誰がもうなんといっても女房稼業はもう真っ平。へっ、おかしくって。たとえ向こう様がお隣のご大家でも、誰が――」。

「ふん、ウソつきやがれ!」といったのは、鍋をガリガリと磨いている東野英治郎の留吉(いかけ屋)である。

「なんだって!」「ウソつけってんだよ。てめえ、下っ引きの島造(上田吉ニ郎)とくっついてんじゃねえのか、ふん!」。

笑いだした千秋実は、ぼんやりと三角座りしている根岸明美のおせん(夜鷹)の顔の前で箸を上下に振る。それでもボ~ッとしているので、小突いてみる。

「何さ、なんだって人をつつくんだよ」「おめえ、目ェさましたまま夢見てるから、ちょっと起こしてやったのよ」「ふん、余計なお世話だ。お前の邪魔をしてやしまいし・・・」「ほれ、また・・・よしなよ。バカな夢見てんじゃねえよ。お前は、ちょんの間八文の夜鷹さ・・・生娘みてえな事考えちゃいけねえ」。



東野がいう。「まったく、女はウソつきだ。自分にまでウソつきやがる」。

清川が怒鳴る。「お黙り。お前こそなんだ。自分のかみさんが使い物にならないからってさ、犬みたいに人のお尻かぎまわってさ、まったく――」「なんだと!」「ずぼしだね」。

「お前さん・・・怒鳴らないで・・・」と、か細くいうのは、寝たきりの東野の女房の三好栄子演じるあさであった――。



――と、こんな感じで物語が進んでゆく。まったく演劇である。人物の性格模写は、この短い場面を見ても観客に伝わってくる。



長屋は、押し入れのふすまが取り外されていて、ちよっとした二段ベッドになっている。

住人は、ほかにもいる――。



酒毒がたたって、「ゴロウロップ(五臓六腑)」ときちんと発音できなく、さらには芝居の名セリフを忘れてしまった役者――藤原釜足。かれの寝床には、かつての幟だったのだろう「中村」という字が読み取れる布切れを折りたたんだものをカーテン代わりにつかっている。



三井弘次は、粋な江戸弁をつかう遊び人――喜三郎。この役は、三井弘次の代表作でもあるのだろう。



三船敏郎は、泥棒の捨吉である。彼だけは、長屋の奥の一間と使っている。

家主の女房・お杉――山田五十鈴は、三船にぞっ込んで、いつかこのどん底から助け出して欲しいと願っているのだが、三船敏郎は、その山田の妹のかよ――香川京子に本気でほれ込んでいる。山田は、それが分かっているので香川京子をいじめ倒す。

二人がつかみ合いになるシーンがある。しかし、豊田四郎監督の「猫と庄造と二人のをんな」(56)といい、この二人はよく殴り合いになりますなあ。



家主・六兵衛を演じているのが、二代目中村鴈治郎である。戦後、衰退した上方歌舞伎界に見切りをつけ、映画界に転身した。「暖簾」(58)、「炎上」(58)、「浮草」(59)、「ぼんち」(60)、「小早川家の秋」(61)、「殺陣師段平」(62)などで名演をフィルムに焼きつけた。この「どん底」では、そのメークアップのすごさも加わり、大家を憎々しげに演じた。この役の為に前歯まで抜いたという。



ほかにも山田五十鈴をからかい長屋出入り禁止になる鼓をカンカン打ち鳴らす藤木悠の卯之吉(下駄の歯入れ)や、渡辺篤の熊(籠かき)、藤田山の津軽(駕籠かき)などがいる。



そこに左卜全演じる巡礼姿の嘉平という老人が加わる。

この老人、不思議と不幸な貧乏長屋の人々の話を真剣に聞いてやり、皆の癒しとなる天使のような老人である。

死にかけている三好栄子のいかけ屋の女房がいう。

「おじいさん、お前さん、いい人だね、ホントに――」。

「河原の石ころさ、さんざん揉まれてまあるくなったのさ・・・ははははは」。

飄々としている。

しかし、蛇の道は蛇で、悪事に通じる中村鴈治郎の大家は正体を見極めている。彼にいう。

「俺の眼はふし穴じゃねえよ、お前、お遍路さんのなりはしてるが、ただの鼠じゃねえと踏んだが、どうだい?」。

「お前さん程の大鼠でもないさ」。

黒澤は、「左さんのルカ(原作での役名)は今まで見た芝居や映画の『どん底』のなかで最高の傑作ですよ」と語っている。

天使の様で、大悪である。かつて、もしこの作品をリメークするならば、左卜全の役は誰がいいだろうと考えたことがある。桂枝雀さん。彼なら出来ただろう――。



長屋の住民は、何かといえば、♪ コーン、コーン、コンチキショ・・・、♪ コン、コン、チキショ、コン、チキショ・・・と自分たちの不平を込めた馬鹿囃子と称する口三味線で大騒ぎをする――。この場面は、黒澤が“演出抱負”で語った「人生のどん底にあっても未来への夢や希望を捨てずにたくましく雑草の様に生き、浮かび上ろうとする人達をむしろ明るく理くつ抜きに面白く描くものである」という言葉の象徴でもあるのであろう。



なんにしても「どん底」は、一時代の日本演劇人の“芸”の総決算映画であった。



4月29日、敷島シネポップにて鑑賞。