もう旧聞に属することだけど、村上春樹の「ノルウェイの森」が1千万部突破。
赤い装丁の本と、緑の装丁の本が一冊ずつ手元にある。
赤い本には緑の文字で、緑の本には赤い文字で「ノルウェイの森」と書かれている。
クリスマスカラーのこの本が発刊されたのは、1987年の秋だった。
手元にあるのはその初版本。発売日に購入することができたのは、当時私が本屋で働いていたから。
書店に届いた段ボールを解いて、店頭に並べる前に自分の分を確保した。
事前に講談社の担当者に電話して、かなり多めに注文したつもりだったが、
1週間も経たないうちにすべて売れ切れてしまった。
記憶では、発売から1年ほどで上下巻合わせて400万部に達したはずだ。
それから20年ほどかかって、後から発刊された文庫本を加えてさらに600万部も売れたということ。
来年には、松山ケンイチと菊地凛子主演で映画化されるらしい。
どのような映画になるのだろう?
小説の中に流れる独特の空気感は表現されるのだろうか?
少し気になる。
「ノルウェイの森」は、知っている人は知っていると思うが、「蛍」という短編をベースにつくられた物語だ。
個人的には「蛍」の方が好み。
恋愛小説である点とストーリー仕立てがしっかりしているように感じられる点が、
他の村上作品との相違点かもしれない。
感覚的だけど、「風の歌を聴け」、「1973年のピンボール」、「羊をめぐる冒険」、「ダンスダンスダンス」など、
他の代表作に比べ、文体がややウェットな感じがする。
「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」に代表される村上作品のもうひとつの特徴である「不思議さ」は、
「ノルウェイの森」にはあまり感じられない。関係ないが「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」に出てくる、
「やみくろ」が語感的に「ユニクロ」とダブるので、個人的にはあまり「ユニクロ」が好きではない。
それから主人公に近い存在が精神を病み自殺してしまうというストーリーの流れは、
宮本輝の「青が散る」とかぶる。
1970年頃の恋愛を1987年に37歳を迎えた男性が振り返る、ストーリーはそんな感じ。
メールも携帯もインターネットもない時代に書かれた、今となっては歴史小説。
このところ、村上作品から離れている。
3年ほど前に読んだ「海辺のカフカ」が最後。
海辺のカフカを読み終えた3年前の私は次のような読後感を残している。
『デビュー作「風の歌を聴け」の頃と比較しても、基本的に淡々として少し乾いた文体は変化していないので、
安心して読み進むことができる。
初めて村上春樹の小説に出会ってから四半世紀ほどの時間が経過し、
全細胞は何十回と新しいものに置き換わっているはずなのに、
文字をトレースして意味のある言葉に変換していく作業を行なった結果得られる感覚は、
はるか昔の記憶とほとんど変わらない。
まるで小学校のグラウンドのように懐かく、そして心地よい。
それはでも村上春樹だからであって、同じ頃読んでた村上龍だとイメージが濃すぎて
こうはいかないようにも思う。
もう昔みたいに300gのデミグラスソースハンバーグと、激辛たんたん麺と、
広島風お好み焼きをはしごして食べるなんてできなくなってしまった。
脂っこいものを受けつけなくなることで自分の年齢と過ぎ去った時間を自覚させられる。
食べ物も、小説も、おそらくは音楽もそうだと思う。
「海辺のカフカ」の中に、ナカタさんと一緒に四国に渡る中日ファンのホシノ青年が
客引きのカーネル・サンダースに女を紹介してもらうシーンが出てくる。
大学で哲学を専攻している女はトラック運転手のホシノ青年に行為の最中、
アンリ・ベルグソンの「物質と記憶」の中にある一節を引いて聞かせる。
「純粋な現在とは、未来を喰っていく過去の捉えがたい進行である。
実を言えば、あらゆる知覚とはすでに記憶なのだ」と。
なるほど。』
景気がどうとか、株価がどうだとか、銀行の不良債権がどうなったとか、
そんな現実社会のことから少し離れてみると、世の中が少し違った形に見える。
いずれにしろ、何を知覚してもそれは記憶なんだ。
「1Q84」を読む前に、もう一度「ノルウェイの森」を読んでみよう。