金大中氏の死去 | 曇りときどき晴れ

金大中氏の死去

元韓国大統領金大中氏が18日、多臓器不全(MOF)ため亡くなられた。


日本との関わりが最も深い韓国の政治家であるにもかかわらず、日本メディアの扱いは小さい。

大統領就任後、北朝鮮を訪れ金正日書記と共同宣言を行い、親北宥和(太陽)政策を採り、

ノーベル平和賞を受賞したことを中心に、どのニュースも構成されている。


だが大統領に上り詰めるまでのストーリーに、金大中氏の政治家としてというよりも人間としての魅力がある。

政治家を志して以降、氏はいったい何度殺されかけたことだろう。


暗殺されかけたことは一度や二度ではないし、逮捕され死刑宣告まで受けたにもかかわらず、

不屈の精神で耐え、何度もよみがえった。

民主化を成し遂げた後は、長年のライバル金泳三との政争に敗れ、政界から一時引退するも、

70歳を過ぎて大統領選に挑み、初めて大統領候補に推されてから30年近い年月を経て、

夢を実現させた。

まさに信念の人だ。


1971年の大統領選挙(もちろん正当な選挙ではない)で、金大中氏は現職の朴大統領に97万票差まで迫った。

焦った朴大統領側が、交通事故を装って暗殺を行おうとするが、間一髪で逃れたものの、

股関節に後遺症が残るほどの怪我を負っている。


1973年の拉致事件は、九段下にあるホテルグランドパレスが舞台だった。

来日中の金大中氏が白昼から拉致され、ソウルでの数日間の軟禁を経て、

自宅近くのガソリンスタンドで解放された。

まだ民主化していなかった韓国のKCIAが主導した拉致事件として世界中の耳目を集めた。

独裁政権だった韓国朴正煕大統領と日本の田中角栄首相との間に政治的密約があり、

金銭の授受が行われたことも今では明るみになっている。


その後、金氏は民主化運動によって逮捕、釈放を何度も繰り返されるが、1980年5月の逮捕によって、

出身地の全羅南道光州市で学生デモ隊と軍・機動隊が衝突、多数の死傷者と逮捕者を出すことになった。

世に光州事件と呼ばれる事件である。

戦車がデモ隊を追い回し、武器を装備した軍に殴り倒され、踏みつけられる学生がテレビに映し出されていた。

金大中氏は、光州事件を煽動した罪により、逮捕から僅か3ヶ月の8月には死刑判決が下った。


政治家である以上、きれい事だけでは済まない部分もあったと思う。


私は、流暢な日本語を話す金大中氏を知るいちばん若い世代だ。

光州事件が起きた1980年は大学に入学した年で、同年代の学生たちが戒厳令軍によって、

なぶり殺しにあっている映像を見た世代でもある。

京都では、金大中氏の死刑判決に反対するデモや署名運動も行われた。

クラスメートの何人かはこうしたデモに参加していた。

当時の鈴木善幸首相は内政干渉と言われるのを承知で、

「日韓親善からみて、金大中の身柄に重大な関心と憂慮の意を抱かざるを得ない。」と発言し、

物議をかもした。


人間とは、あれほど絶望の淵に何度も追い落とされながら、

諦めずに何度も這い上がることができるものなのだろうか?

私なりにメディアから得た情報や、金大中氏に会ったことのある在日韓国人から聞いた話、

金大中氏を救うためにデモに参加したり、戒厳令が解かれたばかりの韓国に行ってきた友人の話、

それから2000年に発売されてすぐに読んだ氏の自伝「金大中 我が人生 我が道」を総合して、

こんなにも激しい人生を生きた人は他に例がないと思う。


今、韓国では日本の音楽が自由に聞くことができるし、ファッション誌も手に入るし、映画も見ることができる。

反対に日本でも韓国ドラマがブームになり、俳優がもてはやされ、歌手がデビューしたりしている。

隣の国なのだから、当たり前のことだと思うかもしれない。

金大中氏が大統領に就任するまで、韓国では日本の音楽を聴いたり映画を観たりすることができなかった。

日本の文化の流入に対し、異常なまでの規制が加えられていたのだ。

深い歴史の溝が両国の間にあったからだ。


諦めずに希望を捨てずに生きる。

氏の生き方から学んだこと。頭では理解できても実行するのは困難ではあるけれど。

ノーベル賞を受賞したからすばらしい人なのでは決してない。

隣国日本のメディアだからこそ、もっと本質部分をきちんと報道してほしいと思った。


心より、哀悼の意を表します。