今回は当家の墓地で2番目に古いと思われる墓石を取り上げます。それがコチラ。



 前々記事「お墓の記憶 Part I」で取り上げた墓石の向かって右隣りにあった墓石です。画像を撮影したときは、しばらく前に既に水を打ってあり、また、日照の具合も程よい加減で、字を読み取りやすくなっています。もう少し寄った画像がコチラ。



 向かって右、清秋院朗光日喬(信士)と刻まれているのが、当家のご先祖さまにあたります。左の浮窓院妙秋日清(信女)と刻まれているのが、ご先祖様の妻です。

 少し暗い画像で恐縮ですが、さらに寄った画像を。



 ご先祖さまの命日が元文3年(1738年)6月7日、妻の命日が享保9年(1724年)7月14日と刻まれています。見にくくてゴメンナサイ。むしろ一個上の画像を拡大表示した方が読みとりやすいかもしれませんネ。

 墓石の向かって右側。



 「享保十一龍集丙午歳七月十四日 牧野忠房立焉」と刻まれています。現代風に読み下せば、「1726年7月14日、牧野忠房がここに立てる」となるかと。妻が亡くなった2年後に、妻の命日に建立した、ということになります。

 この墓石の正面に刻まれた二人の法号の両方に「秋」の字が使われていることといい、ご先祖さま自身の存命中に夫婦墓を建立していることいい、なかなかのオシドリ夫婦だった模様♡♡♡

 きっと、この墓石を建立したときに、ご先祖さま自身の法号も刻字したのだろうと思います。いまでいうところの生前墓です。ご先祖さまの命日だけ、後年に子孫の手によって刻まれたのでしょう。

 ちなみに「龍集」とは、「りょうしゅう」と読み、

───「龍」は星の名、「集」は宿る意。この星は一年に一回周行するところから ) 一年。多く年号の下に記す語。───

という意味があるのですネ。初めて知りました。

 墓石の向かって左側は・・・



何も刻まれていません。墓じまいが終われば、二度と振り返ることはできないので、本当に何も刻まれていないかどうか、よくよく確認しました。

 墓石の裏側には・・・、



 パっと見、何も書かれていないように見受けられますが、水を打って、日照条件を待って、カメラの設定を変えるとアラ不思議!





 Part Iの墓石にあるご先祖さまの来歴の原文がここにあります。結構しっかり判読できます。

 ときに、一連の墓石を調べる中で「なぜ、ご先祖さまは、茂木町を離れて当地に来たのだろう?」という素朴な疑問が湧き起りました。現在の感覚でいうなら、父祖代々の地・茂木を離れて一旗上げようとするなら、まずは宇都宮方面に進出しそうなものです。それなのに、どうして都道府県別魅力度ランキングで万年ビリっけつの茨城に来ちゃったのか、ずーっと謎でした。

 この謎に対して、「ご先祖さま一行は、川=那珂川を下って海を目指したのではないだろうか」という仮説を立てています。那珂川河口の那珂湊は、古くから栄えた港町でした。江戸時代の内陸地の人々の「海に行きたい」という気持ちは、推して知るべし、です。

 以上、Part IIIでした!