2026.03.28更新(墓碑現代語訳追加)
我が家で墓じまいをすることになりました。お墓の記憶を、ここに記録させていただきます。
今回は墓地の中心にあるメインの墓石と墓碑の記録です。メインの墓石から。

正面には南無妙法蓮華経、日良、そして花押が刻まれています。先日、閉眼供養を行った際、お坊さんが「日良」の意味を教えてくださいました。日蓮宗のエラいさん=上人なのでした。
それまでは「何か彫ってあるな~」くらいにしか思ってなかったので、良い気付きになりました。


当家家紋

この記事を書くことで、家紋の名前を知る機会に恵まれました。「丸に三つ盛り亀甲に花菱紋」というらしいです。

この墓石は、1998年に祖母と両親が建てたものです。閉眼供養のときには、両親ともに日良上人のことを「はじめて知った」と言っていました。
ですが、墓石をオーダーする際、詳細仕様について、菩提寺や石材店と打ち合わせしていった中で、日良上人のことは念頭に登ったはずです。だって、現に彫ってあるのですもの。たぶん、昔のことで記憶が薄れちゃったんだと思います。
別の墓石からコピーした先祖の歴史に関する記述です。

記載は次のとおり。
常列久慈郡太田 住 牧野甚右衛門忠房 寛文十一年辛亥歳六月朔 生テ 下野州芳賀郡茂木荘牧野邨 父小林喜左衛門忠直 法号即中院道全日實信士 母大峯氏之女 茂木荘菅又邨之産 法号了智院妙負日性信女 忠房 十二歳 而 本郷 従父母 従 當州水戸城下 仕 士某甲 十年後 在テ 福嶋屋主人見氏 晨昏 至誠 竭 志 主 複 遇之 甚 厚事之十七年 告 辞 来テ 太田ト今之居 父祖代 改 小林為氏 忠房 幼而 来 他国 立 商家 営 産業 為不忘 於呼 生縁之地 為氏 娶 當列 大槻氏之女 為 妻 享保甲辰七月十四日 先而亡矣 享年三十六歳 法号 浄窓院妙秋日清信女 今年 値 大祥 忠 以 立 石 浮圖 同 勒 自之名 而 預作 合葬 之 謀 忠房 厚 歸 佛来 広 法華教宗 以 新宿村 曼荼羅寺 為 墳墓之地 曽 建 三十番神堂一宇 於 寺之南 以 謝 今日之冨 兼 祈 當 来 之 善果 附 腴田若干畝 為 祭修之資 以 年々九月十五日 設 祭祀之禮 其志 要 子孫 興 寺 墓 受持 不可量 之 福永 不致 祭修之缺典 故 勒 碍石 之 後 告 子孫者 也 抑冀 以 三實慈愍之力 後 五百歳 永圓 房 此 願 夫妻 相共 宴㘴 妙法蓮華 臺 祈 之 永 之 云
スペースは、わたくしが素人判断で設けました。以下(イタリックの部分)はAIによる現代語訳です。
常陸国久慈郡太田(現在の茨城県常陸太田市)に住んだ牧野甚右衛門忠房は、寛文11年辛亥の歳(1671年)6月1日〔旧暦:1671年6月1日/新暦:1671年7月7日〕に生まれ、下野国芳賀郡茂木荘牧野村の出身である。父は小林喜左衛門忠直で、法名は即中院道全實信士。母は大峯氏の娘で、茂木荘菅又村の生まれ。法名は了智院妙負日性信女。
甚右衛門は12歳のとき、本郷の両親とともに常陸国水戸城下へ赴き、ある武士に仕えた。その後10年を経て、福嶋屋の主人である人見氏に仕え、朝夕まごころを尽くして奉公し、主人も甚右衛門を深く遇して厚く遇した。17年後に辞去して、太田、すなわち現在の地に移り住んだ。
父祖の代に小林姓を名乗っていたが、甚右衛門は牧野姓と改めた。甚右衛門は若いころ他国に渡って商家を営み、産業を立て、出生地の縁を忘れることなく、姓を継ぎ、この地に住む大槻氏の娘を妻に迎えた。(その妻は)享保9年甲辰(1724年)7月14日〔旧暦:1724年7月14日/新暦:1724年9月1日〕に先立って亡くなった。享年36歳。法名は浄窓院妙秋日清信女。
今年、(妻の)三回忌にあたり、甚右衛門は石塔を建立し、みずからの名もともに刻み、将来の合葬をあらかじめ計画した。甚右衛門は篤く仏法に帰依し、法華経の宗旨を広め、新宿村(現・常陸太田市新宿町)の曼荼羅寺を墓地と定めた。また、同寺の南に三十番神堂を一宇建立し、今日の富に感謝するとともに、来世の善果を祈った。さらに、肥沃な田数畝を寄進し、これを祭祀の費用とし、毎年9月15日に祭礼を行うこととした。この志をもって、子孫が寺と墓を大切に守り、はかり知れぬ福徳を受け、将来にわたって祭祀を怠ることがないよう、あえてこの石碑の裏面に刻し、子孫に伝えるものである。
さらに願わくは、三つの真実(信・行・証)と仏の慈悲の力により、末法の五百年後に至るまで、永遠の法の庵においてこの願いが満たされ、夫婦共に妙法蓮華の台(浄土)にてともに語らい、安らかに過ごすことを、永久に祈るものである。
次に墓誌。


動画としても記録しました。
墓石が沢山ありますので、追々、アップして記録を残してまいりたいと思います。以上、お墓の記憶 Part Iでした。
我が家で墓じまいをすることになりました。お墓の記憶を、ここに記録させていただきます。
今回は墓地の中心にあるメインの墓石と墓碑の記録です。メインの墓石から。

正面には南無妙法蓮華経、日良、そして花押が刻まれています。先日、閉眼供養を行った際、お坊さんが「日良」の意味を教えてくださいました。日蓮宗のエラいさん=上人なのでした。
それまでは「何か彫ってあるな~」くらいにしか思ってなかったので、良い気付きになりました。


当家家紋

この記事を書くことで、家紋の名前を知る機会に恵まれました。「丸に三つ盛り亀甲に花菱紋」というらしいです。

この墓石は、1998年に祖母と両親が建てたものです。閉眼供養のときには、両親ともに日良上人のことを「はじめて知った」と言っていました。
ですが、墓石をオーダーする際、詳細仕様について、菩提寺や石材店と打ち合わせしていった中で、日良上人のことは念頭に登ったはずです。だって、現に彫ってあるのですもの。たぶん、昔のことで記憶が薄れちゃったんだと思います。
別の墓石からコピーした先祖の歴史に関する記述です。

記載は次のとおり。
常列久慈郡太田 住 牧野甚右衛門忠房 寛文十一年辛亥歳六月朔 生テ 下野州芳賀郡茂木荘牧野邨 父小林喜左衛門忠直 法号即中院道全日實信士 母大峯氏之女 茂木荘菅又邨之産 法号了智院妙負日性信女 忠房 十二歳 而 本郷 従父母 従 當州水戸城下 仕 士某甲 十年後 在テ 福嶋屋主人見氏 晨昏 至誠 竭 志 主 複 遇之 甚 厚事之十七年 告 辞 来テ 太田ト今之居 父祖代 改 小林為氏 忠房 幼而 来 他国 立 商家 営 産業 為不忘 於呼 生縁之地 為氏 娶 當列 大槻氏之女 為 妻 享保甲辰七月十四日 先而亡矣 享年三十六歳 法号 浄窓院妙秋日清信女 今年 値 大祥 忠 以 立 石 浮圖 同 勒 自之名 而 預作 合葬 之 謀 忠房 厚 歸 佛来 広 法華教宗 以 新宿村 曼荼羅寺 為 墳墓之地 曽 建 三十番神堂一宇 於 寺之南 以 謝 今日之冨 兼 祈 當 来 之 善果 附 腴田若干畝 為 祭修之資 以 年々九月十五日 設 祭祀之禮 其志 要 子孫 興 寺 墓 受持 不可量 之 福永 不致 祭修之缺典 故 勒 碍石 之 後 告 子孫者 也 抑冀 以 三實慈愍之力 後 五百歳 永圓 房 此 願 夫妻 相共 宴㘴 妙法蓮華 臺 祈 之 永 之 云
スペースは、わたくしが素人判断で設けました。以下(イタリックの部分)はAIによる現代語訳です。
常陸国久慈郡太田(現在の茨城県常陸太田市)に住んだ牧野甚右衛門忠房は、寛文11年辛亥の歳(1671年)6月1日〔旧暦:1671年6月1日/新暦:1671年7月7日〕に生まれ、下野国芳賀郡茂木荘牧野村の出身である。父は小林喜左衛門忠直で、法名は即中院道全實信士。母は大峯氏の娘で、茂木荘菅又村の生まれ。法名は了智院妙負日性信女。
甚右衛門は12歳のとき、本郷の両親とともに常陸国水戸城下へ赴き、ある武士に仕えた。その後10年を経て、福嶋屋の主人である人見氏に仕え、朝夕まごころを尽くして奉公し、主人も甚右衛門を深く遇して厚く遇した。17年後に辞去して、太田、すなわち現在の地に移り住んだ。
父祖の代に小林姓を名乗っていたが、甚右衛門は牧野姓と改めた。甚右衛門は若いころ他国に渡って商家を営み、産業を立て、出生地の縁を忘れることなく、姓を継ぎ、この地に住む大槻氏の娘を妻に迎えた。(その妻は)享保9年甲辰(1724年)7月14日〔旧暦:1724年7月14日/新暦:1724年9月1日〕に先立って亡くなった。享年36歳。法名は浄窓院妙秋日清信女。
今年、(妻の)三回忌にあたり、甚右衛門は石塔を建立し、みずからの名もともに刻み、将来の合葬をあらかじめ計画した。甚右衛門は篤く仏法に帰依し、法華経の宗旨を広め、新宿村(現・常陸太田市新宿町)の曼荼羅寺を墓地と定めた。また、同寺の南に三十番神堂を一宇建立し、今日の富に感謝するとともに、来世の善果を祈った。さらに、肥沃な田数畝を寄進し、これを祭祀の費用とし、毎年9月15日に祭礼を行うこととした。この志をもって、子孫が寺と墓を大切に守り、はかり知れぬ福徳を受け、将来にわたって祭祀を怠ることがないよう、あえてこの石碑の裏面に刻し、子孫に伝えるものである。
さらに願わくは、三つの真実(信・行・証)と仏の慈悲の力により、末法の五百年後に至るまで、永遠の法の庵においてこの願いが満たされ、夫婦共に妙法蓮華の台(浄土)にてともに語らい、安らかに過ごすことを、永久に祈るものである。
次に墓誌。


動画としても記録しました。
墓石が沢山ありますので、追々、アップして記録を残してまいりたいと思います。以上、お墓の記憶 Part Iでした。