こんにちは やっと普通に歩けるようになった toco です。
大山登山から
1歩も外に出られず・・・
ひたすら湿布のお世話になっておりました。
写真は投稿には関係ありませんが日本海に満月です
今日は わたしの 父の病気についてです。
長いです
わたしの父は生きているのが
信じられないほど
病気に けがをしています。
終戦を8歳で迎えた父
それからほどなくして
父親・・わたしの祖父を亡くしたため
祖母が1人で6人の子供を育て
決して裕福ではなかったと思います。
若いころから 酒好きで
ザ・昭和の父で
ワンマンで仕事人間
母には外に仕事に出させない
女は家を守れ
子供の事は母親の責任だ!
のスタイル。
母は車の免許も取っていません
歩いて3人の子供を抱えて
買い物でも 出かけるのも
1人・・・
どんなに お金がないときでも
父は母を働かせず
父の給料だけで
なんとかしろ!
でした・・・
母は大変だったと思います。
今みたいに
旦那に物申すなんて
出来ない時代でしたからね。
ただ 幼いころに父親を亡くした父ですから
わたしたちにさみしい思いをさせたくなかったんでしょう。
結婚して
まだ間がない
姉も生まれていない時に
父の運転で母と祖母と
遠出をしたことがあって
帰りに山の峠を通るんですが
昔は舗装もされておらず道路はガタガタ
崖の脇でもガードレールもないような時代
ハンドル操作を誤ったのか
暗くて見えなかったのか
崖から 車ごと転落したんです。
母は転落途中で祖母を車から押し出し
自分も 飛び降りて
ケガはしましたが
大けがにはなりませんでした。
父は 落ちるとき
崖の下に村の集落が見え
家に突っ込んではいけないと
とっさに思い
最後までハンドルを離さず
車ごと崖下に突っ込み
車は大破・・・
父は・・・虫の息でした
集落の人たちが
大きな音に驚いて集まってきて
「こりゃ だめだ」
「生きとるか?」
父には声が聞こえていたそうです。
それでも
息があったので
村の人が 病院に連れて行って下さり・・・
(救急車は呼んでも2時間くらいかかるそうで)
大けがのまま
ジープのような古い車で
荷台に乗せられ
ガタガタ道を揺られ・・・
(これが1番死にそうだったと後に語っていましたが)
小腸は破裂し
顔には鉄の棒やら木の枝やら
突き刺さったまんまで
先生も なかば諦め気味に
応急処置をして
大きな病院に行って手術し
なんとか一命はとりとめることができました。
が
手術は下半身麻酔・・・今ならないな
先生の手術中の
「うわぁ~ぐちゃぐちゃだ」
と腹の中の事を言われた時は
心の中で
「終わった・・・」
と思ったそうです
この時父に何かあれば
今のわたしはいません。
ここで
父が 自分の身体に感謝して
大切にしようとしていたら・・・
このあとの
大きな病気も防げたのではないか
と思ったりしますが・・・
生かされた意味を考えたり
感謝から信仰したり
そんなことは全くなく
(助けてくれた方々にはもちろん感謝はしていましたが)
酒も飲むし
ワンマンだし
それから約6年後に
3人兄弟の1番下でわたしが産まれました。
(あ~良かった)
わたしが生まれたときは日本も
高度成長期
父はますます仕事人間で
本当にわたしは父と遊んだ記憶が
ほとんどありません。
でも仕事で結果を出してきた父は
大手会社の枝分かれした子会社の
常務取締役(雇われ社長ですね)に
抜擢されたんです。
その仕事ぶりは
親会社の会長にも社長にも
物申す
ここでもワンマンぶり
(わたしは父の血を継いだ気が・・・)
ただ
ストレスは半端なかったと思います。
仕事から帰ると
すぐにお酒を飲み
午後8時半には寝てしまうんですが
必ず目が覚めたように
10時だったり
遅い時には夜中だったりに
起きては来るんですが・・・
意識はもうろうとしていて
起きているのか寝ているのか
狙われてるからと
柱の陰に隠れたり
壁やテレビに向かって行って
ケガをしたりテレビを壊したり
布団を振り回したり
(それ見て笑っていましたが・・・)
声をかけると
わたしに向かってきたり・・・
(大蛇と戦っていたらしい)
数々のエピソードがありますが
寝言だけでも
仕事のストレスとわかるような
怒鳴り声もありました。
これだけ
ストレスが身体に精神に
影響するんだということですよね。
そのおかげで
会社が成功したり
わたしたちが
養ってもらったんだということに
もちろん大人になってから
気が付きましたね。
母も大変だったけど
父も大変だったんですよね。
わたしは子供ができてからも
フルで働き夜勤もしていたので
どちらの大変さも知ることができました。
事故から10年
仕事を夢中でしていたんでしょう
わたしが4歳の時
胃潰瘍で20日くらい入院しました。
そこからは
20年くらい頑張って
やっと仕事も落ち着いたのか
気が抜けたのか
怒涛の病気人生
54歳でマロリーワイス症候群を起こし
(食道と胃の境目が傷つき裂けて出血するんです)
58歳で甲状腺腫瘍で1/2を切除し
1年おきに胸膜炎 肺炎・・・
この時点で身体がボロボロに思えますが
50歳くらいから母を連れて
あちこち海外旅行に行っていました
アメリカ
カナダ
フランス
ヨーロッパ各地
中国
韓国
日本の各地
60歳で脳腫瘍・・・
この時は
先がどうなるか分からないと
家族で覚悟を決めましたね。
手術で復活
それからも
相変わらず
お酒に喫煙・・・
アルコール性肝炎
肝硬変を経て
脳腫瘍から4年・・・
肝臓がん発覚
これには
本人もさすがに怖かったのか
「もう 最後かもしれないから・・・」
何を希望するのかと思ったら
「特別室に入院させてくれ」
・・・・・
って おい
まっ希望は通りましたけどwww
これも
肝臓と胆のうを切除して
抗がん剤も使用せず完治。
どこまで しぶとい・・・
あっ もとい
どこまで 生命力の強い人だろう。
我が家は
父のおかげか
病気というものに
免疫ができているのか
心配するより
みんなで笑い話にして
手術の日に泣いたり
心配でご飯が食べられないなんてことはなく
手術中 美味しいものを食べに
行っちゃうような家族ですwww
その後も父は生活を改善するようなこともなく
高血圧に通風など
病院と薬のお世話になりながら
病気が落ち着いてるかと思いきや
ライターの石がかんで火が消えていないまま
胸ポケットに入れて大やけど
入院して皮膚移植まで
ここまでくると
もう病院に居たいとしか思えませんwww
このころには
会社も役員を卒業し家にいることが
多かったので
病院に行くのが楽しみだったんでしょうか
身体を大切にしているような酷使しているような
とうとう
76歳で下咽頭がん・・・
ステージ4
今度こそ ダメだ・・・
とは誰も思わず
手術で 首の中 骨のみ残して
食道も取り外し
胃から咽頭までを
あの事故でかろうじて残った
小腸を繋いで・・・
(ありがとう小腸)
手術のみで完治。
完治と言っても
もう自分の声で話すことも出来ず
気管切開してあるので
喉には穴があいたまま
ただ小腸と気管は別々なので
今後 誤嚥して食べ物を喉に詰まらせるということも
心配いりません。
そうです
食事もゆっくりですが食べれます。
食道のようにスムーズに通らないので
小腸はグニャグニャしながら
食べ物を通していきます。
それでも
寿司でもうどんでも焼肉でも
なんでも食べます
この後も
黄疸が出たりしましたが
元気に家でいまだにお酒を飲んでいます。
最後は
以前した脳腫瘍の術部が15年以上たって
化膿して・・・
(鼻から菌が入ったんでしょう)
4年間の間に3回手術して
結局 前頭部(おでこの上)は
もう骨がありません。
(スタッフの方から誕生日を祝ってもらって)
前から転んで 頭を打ったら終わりです。
人間って
こうなっても 生きられるんだ
(これ術後1日目まだ集中治療室です)
看護師として
言う言葉じゃないですが
多分誰よりも
生きるに執着しているんだと思います。
今は笑い話ですが
術後パニックで車いすに安全ベルトをされたことも
母が責められたことも
本人はケロッとしたものです。
大阪に住む姉は
誰よりも父を心配し
元気になってから
日本のあちこち父と母を連れて行ってくれます。
頭が下がります。
父が残念なことは
タバコが吸えないこと
気切の穴からは吸えませんから
今年 83歳の父ですが
まだまだ お酒を楽しみたいそうです。
今世でやるべきことがまだあるんじゃない?
というと
「いや今世は酒飲んで終わり
やるべきことがあるなら来世でするわ」
と言っております。
これでは
お迎えも なかなか来ませんねwww
病気になるという事が
何か意味があるんだとすると
もしかすると
父は 家族の病気を一身に受けてくれたのか
わたしに在宅での看護を見せてくれるためだったのか
病気が笑いで乗り越えられる事を教えてくれたのか
・・・なんのためなのかは分かりませんが
本人の生きる気持ちと
家族の笑顔は
病気を悪ととらえず
ただ受け止めて
対処出来ることをしたら
もう 任せるだけ。
病気になると不安を口にしがちですが
不に意識が強くなれば
不しか招きませんからね。
我が家は 大人になってからは
父が病気になるたび
集まると 誰が1番面白いことが言えるか
競い合うような家族です。
そういう 気持ちで いると
病気も逃げていきます。
・・・また来ますが
(我が家の息子の成人式も無事一緒に)
長い投稿 最後まで読んでいただき
ありがとうございます。
みなさんにとって
すこしでも 病気に対しての考え方が
参考になったら幸いです