この前たかじんで部落問題についてやっていた。

その放送の前に同和地区にある病院を訪ねていたのでより印象的だった。


地元では部落という言葉は聞かなくなっていて、私の世代の人たちはどこが部落なのか知らないと思う。

その病院の人に  “ここはドウワ地区なんです。”

と言われて、とっさに漢字変換ができず、聞き返してしまったほどだ。

でもその地域では今でも同和地区という考えは残っていて、

ここには昔から貧しい人が多く、病院もなかったので、

院長先生や、スタッフの方々が、手作りで造った病院とのことだった。

そして今でも部落の人との結婚が親戚の間で問題になったり、

同和地区に引っ越すことが反対されたりすると教えてくれた。


さっき書いたように、わたしの地元では部落というのをあまり問題視していないせいか、

うちの父のように部落という問題を取り上げなければいい、

そうすれば、どこが部落なのか忘れられ、差別もなくなる。。。と考える人もいる。


実際に図らずも(図って?)私のようにこの問題を忘れてのほほんと暮らしている人も私だけではないはず。


それに本当か知らないけど部落出身ということを主張してそれを利用しようとする人もいると聞く。


でも私の意見はやっぱり部落の問題を忘れてはいけないと思う。

って、忘れて生活している私が言えることじゃないんだけど。

でもそう思う。

理想はやっぱり部落問題を忘れることではなく、

みんなが知って、それが間違いだったよなという共通理解をもつことだ。

そしてこの過ちから学ぶことが大切だ。


話がそれるけど、

夏にインドに行ったときに、私はカースト制度について聞いてみた。

観光客向けの答えなのかもしれないが、

その人たちは、

“今はそんなに問題じゃないよ、一部の人たちが騒いでいるだけ。

ただ職業が生まれたときから決まっていただけだよ。

そうしないと社会が成り立っていかないでしょ?”

と言って、今は改善されてきているという意見だった。


その数ヵ月後、インド、ムンバイで大きなテロが起こった。

その背景にはカースト制度の蚊帳の外に置かれたムスリム(イスラム教)の人々が

長い間社会構造の底辺に置かれていたという問題があると知った。


私が旅行していたときもデリーで小さなテロがあったのだが、

そんな問題も知らない、だめだめな私は何でテロが起こっているのかさっぱり理解していなかった。


このインドの問題を知ったとき、私はインドで出会ったRajaという青年を思い出していた。

彼はイスラム教徒だと言っていた。

きっと彼は観光客(多分日本人)目当ての裏がある人だった可能性が高いけど、

彼は宗教のことも教えてくれた。


インドの代表的な言語であるヒンドゥー語はその名の通り、ヒンドゥー教の言葉からきている。

例えば、こんにちは の ナマステ もヒンドゥの言葉だ。

だけど彼はその言葉を使うのに抵抗はないといっていた。

それにヒンドゥの人々だからどうということもない。 とも。


でも映画の話になったときに、

ムスリム出身の俳優は素晴らしいんだ!ということをかなり強調していた。

感情表現が素晴らしいんだと。

そして、この俳優はヒンドゥだ、この俳優はムスリムだ、と一人一人教えてくれた。。。

半分意識が飛びそうになりながら聞いて、

やっぱり、自分の宗教に対する思い入れは強いんだな、ということを知った。

彼らの宗教は、私たちが宗教と言って思い浮かべる以上の意味があることを実感した。

つまり、私たちには宗教というと個人の思想というイメージが強いが、

彼らの宗教と言うのは、国籍とか、人種とか、あるいはそれ以上の大きな“枠”の意味を持ち、

私たちが感じる愛国心のような強い思い入れがある。

やっぱり、、、どうってこと、あるんじゃん。。。って。


こんな思い出があったから、このテロの問題を身近に感じることができた。理解できそうな気がした。


でもでも、かなり話がそれたけど、絶対別にして書くべき話だったけど、

部落の問題を聞いたとき思ったんだ。

インドに行かなくても、このインドの問題を身近に考えれるジャン!

日本にも同じような問題があったんジャン!ってさ。


そして、部落問題を忘れていったらどうなるのか?

きっと、部落問題で悩んできた人たちの傷が“ひずみ”になって残るんだ。

その“ひずみ”が大きくなって、より経済的な面で進んでいた場合どうなるのかと言う例が

インドのテロなんだと思う。


中国の例もそうだ。

私が一昨年前に中国・北京に行ったとき、北京オリンピック一年前でみんな沸き立っていた。

その一方でいろいろな問題が生じていることも日本のテレビで放送されていた。

私がいた近くでも貧困層にある人々が住んでいた場所がきれいにされて

その人々は移動させられていた。

そこで現地の人にどう思うか聞いてみると、

軽い調子で、きれいになってよかった!

と言っていた。

そして、貧しいのは一生懸命働かないから。平日の昼間でもたくさんの働き盛りの男性が公園にいるじゃない。

と続けた。

確かに一理あるんだと思う。そういう人もいるだろう。

でも、そうじゃなく苦しんでいる人も確実にいるよね。

実際、北京オリンピックの裏で苦い思いをした人たちのことが日本でも多く報道されていた。

そのいった中国政府の対応の結果が各国からの非難だし、

チベットの暴動も共通する問題を持っていると思う。


インドにしても中国にしても、きっとそういったマイナス要素を省みず、前進していく勢いが必要だったんだな

とは思う。それがなければ発展はないんだろう。


話がそれがちだけど、言いたいのは私たちには部落問題のひずみについて考える余裕があると思うし、

この問題は世界のいろんな問題ともリンクしていて、学べることも多いなぁってこと。


そして再び同じ過ちを犯さないためにも、忘れてはならない。

差別って人間である限りなくならないって思う。

人はきっと誰かに対して優越感を持っていたいと思ってるはずだし、

それが自信につながっていくんだなって思う。

だから部落を忘れても、また新たな材料を見つけて差別を続けていくだろうな。


人間って、過ちをそれによる痛みを感じてはじめて過ちだと認識するんだと思う。

戦争も、戦争による痛みを知ってはじめて否定することができたんじゃないかな。

だから部落の人々の痛みを知ってはじめて差別のこわさを知ることができる。


なんつって。