カンボジア在住ライターHARUが綴る「人生とアート」

カンボジア在住ライターHARUが綴る「人生とアート」

〜「すべての人の中にある創造性に光を当てたい」〜

カンボジアでインタビューライターをしているHARUのブログです。
インタビューの裏話のほか、カンボジア生活の気づきや学びをシェアしていきます。

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存在感がある人

 

と聞いて、

どんな人を思い浮かべるだろうか?

 

 

単に、

 

目立つ人=存在感がある人?

 

 

それとも、

 

目立たないけれど、

どっしりと安定した核のようなものを

内に秘めている人こそが、

存在感がある人?

 

 

ここのところ立て続けに、

 

私は、存在感が圧倒的に薄いのか?

と思うことがあった。

 

 

正確に言えば、

一度会った人に

存在を覚えてもらえない。  

 

相手は基本、

日本人以外だけれども。

 

 

二度目に会った時に、

こちらは相手のことを覚えていて

声をかけるものの、

 

向こうは私のことを

うろ覚え。

 

 

別の日本人と間違えられたり、

別の男性の奥さんと間違えられたり。

 

 

それが

夫と一緒にいると、

かろうじて

思い出してもらえる。

 

 

「ああ、このモジャモジャ頭の奥さんね」

と(笑)。

 

 

夫は大の目立ちたがり屋で、

髪型も言動も派手だから

一発で覚えてもらえるし、

人混みの中でさえも探し出してもらえる。

 

 

一方の私には、

目立ちたい願望はまったくないのだけど、

覚えてもらえないのは

ちょっと悲しい。

 

 

結婚してからというもの、 

 

顔を覚えてもらえたとしても、

「◯◯さんの奥さん」

としか呼んでもらえないこともあって、

結構悲しい。

 

 

私は名前すら呼ばれない。

「所詮、私は夫の付属品なんだ」

と拗ねてしまうこともあった。

 

 

だからと言って、

私は存在感が薄い

と言っていいのかわからないけれど。

 

 

存在感って一体何?

 

 

そんなことを考えながら、

 

一発説教されたくなって思い出した

KREVA先生の『存在感』。

 

 

KREVA『存在感』

そもそも 存在してるんだから

「無い」とか「薄い」とか言われても困るだろう

だからってギャーギャー騒いだり

泣いたりして目立つ

それは逆だろう

むしろ黙ってても ただ立ってても

その人の中にある何かが語り出すような

そんな存在であれ

(歌詞抜粋)

 

 

なるほど。

 

 

本当に存在感がある人には、

名前すらも重要ではないのかもしれない。

「◯◯さんの奥さん」のままでもいいのかもしれない。

(悲しいけど)

 

 

顔を覚えてもらうだけなら、

覚えてもらいやすい格好をする

などというのも一つの手かもしれないけれど。

 

 

本当に存在感がある人とは、

 

そういった外側の要素が

目立つ人ではなく、

 

 

自分にも他人にも嘘をつかず、

自分の生き方を貫いている人。

 

嘘をついていないということは、

自分にも他人にもオープンである人。

 

 

包み隠すことがないから、

 

ただ黙っていても、

名前なんてなくても、

内側にある何かが勝手に語り出す。

 

 

そんな人のことを言うのかもしれない。

 

KREVA先生の意図とは

違うかもしれないけれど、
私はそうしたメッセージを受け取った。

 

 

ならば、

存在感のある人でありたいものだと思う。

 

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by カンボジア在住フリーライター HARU

 

すべての人の中にある創造性に光を当てたい。

 

そんな想いから、カンボジアのアート・カルチャー分野を中心に、取材・インタビュー記事を執筆中。

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物語の筋書き把握能力に

著しく欠ける私。

 

フィクション映画は、

ちょっとでも入り組んだ話になると

話についていけず、

完全に迷子になってしまう。

 

 

だからというわけでも

ないのだけれど、

 

映画は観るとしても、

もっぱらドキュメンタリーか

伝記映画。

 

 

特に、

ミュージシャンの人生を

取り上げた映画が

お気に入り。

 

 

さらに言えば、

 

プロデューサーや

ミュージシャンたちが

レコーディングスタジオに

缶詰になり、

 

ああでもない、こうでもない

と言いながら、

 

最高の音を追求して

曲作りをしているシーンに

グッとくる。

 

 

最近で言えば、

『ボヘミアン・ラプソディ』。

 

クイーンについては

詳しくなかった私でも、

レコーディングシーンには

熱いものを感じた。

 

 

でも、まあ

ヒップホップ好きの私には

やはりこの1本がしびれる。

 

『ストレイト・アウタ・コンプトン』(2015年)

 

 

1986年にアメリカで結成され、

ギャングスタラップを世に知らしめた

N.W.A.の伝記映画。

 

 

N.W.A.は、

過激なリリックが

暴力や犯罪を助長するという理由で

FBIにまで目をつけられていたグループ。

 

 

実際には、

ドラッグディーラーだった

Eazy-Eを除けば、

 

いかつい風貌で

ストリートの現実を伝えただけで、

根っからのギャングではなかったのだけれども。

 

 

 

彼らが、

デビューアルバムの制作のために

スタジオに篭っていたシーン。

 

 

時に、

ああだこうだと

言い合いを重ねつつも、

ワイワイと楽しみながら

曲を作っていき、

 

 

最後に

「おい!やべーのできたぞ!!」

「これを世に出したらやべーだろ!!」と、

 

 

満面のドヤ顔で

顔を見合わせながら

歓喜しているシーンが

なんともしびれる(笑)。

 

 

まだ誰もやったことがないような

新しいことをやってやろう、

生み出してやろう

という心意気。

 

 

時にぶつかり合いながらも

さらに高みへ、高みへと

突き詰めていく姿勢。

 

 

そして、最高のものが

出来上がった時に、

チームで分かち合う喜び。

 

 

そんな様子を

切り取ったシーンが

大好きなのだ。

 

 

もっと言うと、

そこに映し出される、

 

最高のものを

生み出そうとしている人たちの顔が

たまらなく好きだ。

 

 

儲かるか?儲からないか?はさておき、

どれだけいい作品を作れるか?

 

その1点のみに

フォーカスしている人たちの顔が

本当に輝かしく感じる。

 

 

 

皆さんにも、

ついグッとくる

映画のシーンというものが

あるだろうか?

 

 

そうしたシーンにこそ、

自分が理想とする生き方が

垣間見えているのかも

しれないな、

 

と思う夜。

 

 

今日も、

映画のレコーディングシーンだけを

繰り返し見ては

ほくそ笑んでいる。

 

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電力自給率が低く、

慢性的な電力不足状態のカンボジア。

 

今年は特にひどい。

 

4〜5月は1年で一番暑い時期だというのに、

連日長時間の停電が発生する。

 

しかも、

停電は、予告なく突如やってくる。

 

 

まったく予測できないところが

特に厄介なのだけど、

これまでは、遅くても18時には

電気が復活していた。


 

ところが、先日とうとうやって来た。

夜の停電というやつが。

 

 

夕飯を食べ終え、

さてもう一仕事しようかと

思っていた21時頃。

 

突如、目の前が真っ暗に。

 

 

まったく油断していた。

 

夜の停電は予測していなかったので、

PCもスマホも充電量が残りわずか。
 

 

部屋は真っ暗な上、

エアコンもつかず暑すぎて、

頭が働かない。

 

 

何もできることがなく、

もう寝るしかないような

状態になってしまった。

 

 

とりあえず、

ベッドに仰向けになり、

天井を見ながら考える。
 

 

こんな時にこそ

できることって

なんだろう?

 

 

何か生産的なことを

しようと思ってもできず、

なんとなくイライラする私。

 

 

一方で、

横を向くと

気持ちよさそうに

グースカ寝ている夫。

 

その姿を見て、

ハッと思い出した。

 

 

 

そうだった。

 

私がカンボジアで学んだ

最重要事項は、

 

不可抗力には抗わない

 

ということだった、と。

 

 

 

「不可抗力」という言葉から、

皆さんはどんなことを

イメージするだろうか?

 

 

自然災害?

事故?

紛争などの不測の事態?

 

 

自分の力ではコントロール

できないものの代表格といえば、

真っ先に思い浮かぶのは

こんなものだろうか?

 

私も日本にいる時は、

同じようなことを

思い浮かべていた。

 

 

 

ところが、
 

ここカンボジアでは、

「不可抗力」がカバーする領域が

日本に比べて格段と広いのだ。

 

 

日本であれば、

自分の力でコントロールできそうなことも、

ここではコントロール不可能。

潔く諦めるしかないことが多い。

 

 

 

停電だってそう。

 

もし、日本で不測の事態があって

計画停電を余儀なくされることがあれば、

事前に詳細な停電スケジュールが

告知されるだろう。


 

何時から何時までは電気がないと

分かっていれば、

自分の予定も調整できる。

 

 

それが、

カンボジアでは

事前に計画を立てて何かを行なう

ということが少ない。

 

 

あらゆることが

予告なく行われるこの国では、

 

こちらも心づもりをして

対策を打っておくことができない。

 

 

それが、たとえ役所のような

公的機関が行なうことであっても。

 

 

スケジュールは、

相手都合で簡単に

遅れることがあるし、

 

万全の準備で揃えて提出した事務書類も、

ある日突如変更になる要件次第では

不備とされる。

 

以前はいらないと言われた書類を

後になってから出してほしいと

言われることなど日常茶飯事。

 

それによる、

二度手間やスケジュールの遅延は

当たり前。

 

 

 

もし、

こんなことや、あんなことが起こったら、

こうしよう。

 

事前に起こりうるリスクを予想し、

あらゆるリスクヘッジ策を考えておいても、

 

太刀打ちできないような

突拍子もない変化球が飛んでくることがある。

 

 

思い通りにいかないこと自体が

ストレスなのだけど。

 

それ以上に、

思い通りにいかない前提で

立てた予防策すら、

何の効力も持たないことが

虚しさを募らせる。

 

 

そうは言っても、

外国人が海外で生きていく以上、

現地の慣習に抗おうとしても無駄。


 

どうにもならないことに

キーキー言って

腹を立てても、

 

何も解決しないばかりか、

 

エネルギーを消耗し、

虚しさだけが

残るのだ。

 

 

 

そう。

4年にわたるカンボジア生活が

私に教えてくれた最大の知恵。

 

 

それは、

 

自分の無力を認め、諦めること。

無駄な抵抗を諦めること。

 

自分の力でどうにもならないことを

潔く手放し、

今できることにだけに

フォーカスすること。  

 

 

私にとってこれらは、

 

「不可抗力」の意味するところが広い

カンボジアで暮らしていたからこそ

気づけたことではあるけれど。

 

 

どこに暮らしていても、

時に必要になってくる

あり方なのではないだろうか?

 

 

今年も、

 

頻発する

予告なき停電が

 

不可抗力には抗うな。

どうにもならないことにジタバタするな。

 

と、繰り返し教えてくれている

ような気がしている。

 

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by カンボジア在住フリーライター HARU

 

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そんな想いから、カンボジアのアート・カルチャー分野を中心に、取材・インタビュー記事を執筆中。

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突然ですが、

 

あなたはどんなものを「美しい」と感じますか?

 

 

先日、

 

草木や花などの自然界の生命から

インスピレーションを得て

作品を制作をしているという、

アーティストに取材をした。

 

 

「それはそれは、言葉で言い尽くせないくらいに美しかったの。」

 

彼女が、かつて見た花の美しさを語った時、

 

 

彼女の体中から、

澄み渡るように美しい感性が

にじみ出ているように感じた。

 

 

「いつも前を向いて微笑んでいる植物は真実で、嘘をつかない。

なんて美しい存在なのかしら。」

 

 

そう語る彼女からは、

まっすぐでピュアな

憧れのようなものさえも

感じることができた。

 

 

彼女が黄色い花の美しさに感動したように、

 

私は、

花の美しさを全身で語る彼女の姿が

何よりも美しいと思った。

 

 

美しいものを見て、

こんなにも感動できる彼女は

なんて美しいのだろう、と。

 

 

 

一方で、

 

最近私自身は、

外の景色などを見て

美しいと思ったことが

あっただろうか?

 

と考えてみる。

 

 

 

すると、

思い浮かぶのは、

 

整った景色ではなく、

荒廃した景色。

 

作り込まれた調和ではなく、

雑然とそこにある偶然の調和。

 

 

そんなものを見て、

美しいと感じることが

多いように思う。

 

 

昔に比べると、

 

色彩豊かなアート作品や

自然界にある雄大な景色

よりも、

 

無造作に打ち捨てられた

雑多なモノやゴミ達が

意図せずして作り上げる世界

 

 

そんなものを見て

ハッと魅了される瞬間が

増えたように思う。

 

 

年齢を重ねるうちに、

食べ物や服の好みが変わるように、

美しいと感じる景色も

変わっていくのだろう。

 

 

周りの人たちが

満開の桜を見て感動している最中に、

自分は内心「そこまででもない」と

思ってしまうような時があっても、いい。

(私のこと)

 

 

それはただ、

あなたが美しいと感じる対象が

他人と違うだけだから。

 

 

 

花の美しさに立ち止まるあなたも美しい。

荒廃した美しさに立ち止まるあなたも美しい。

 

美しいと感じたものを美しいと言うあなたは、

いつだって美しい。

 

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電話の際、普段より声を1トーン上げなさい。

 

 

日本で社会人になった頃、

 

そんなことをマナー本で読んだか、

新人研修で習ったような気がする。

 

 

理由は、

 

明るい印象を与えた方が

相手に好印象を与えるし、

商談もうまく運びやすい

 

そんなことだっただろうか?

 

 

今になって思うのが、

これって世界共通なのだろうか?

 

ということ。

 

 

割と多民族が集まっている

カンボジアで暮らしていて、

 

カンボジア人や在住欧米人などが

電話で話している様子を

近くで聞いていると、

 

皆、声のトーンを上げていないように思う。

 

 

普段のトーンとさほど変わらないし、

女性でも、とても低い声で話している。

 

 

 

私の声は、女性にしてはかなり低い方だと思う。

 

昔から、自分の声が低いことは

認識していたものの、

 

小さい頃は、

別段それがコンプレックスでもなかった。

 

 

低い声が気になり出したのは、

日本で社会人になってから。

 

 

「残りの期間、HARUさんにはテレアポをやってもらおうかな?

いや、いいや。

やっぱりやめておこう。

HARUさん、声低いしな・・・。」

 

 

当時働いていた会社を辞め、

転職したい旨を上司に告げた時。

 

 

その会社では「おまえはもう用無しだ」

と言わんばかりの上司(当時の私にはそう見えた)が、

 

退職までの残りの期間で、

営業をサポートすべくテレアポをしてほしいと言ったものの、

私の声の低さを理由に、提案を却下した。

 

 

テレアポなどやりたくなかった私にとっては、

ある意味好都合ではあったのだけれど、

その一言に結構傷ついていた。

 

 

声が低い私=人に不快感を与える存在

 

 

上司の何気ない発言が、

私の中では、勝手にそんな風に解釈されていた。

 

 

 

それからというもの、

 

転職した後も、

仕事で電話を受ける時などには、

意識して普段の1〜2トーンくらい

高い声を出すようにしていたのだけど、

(頑張れば、一応できる)

 

なんだか気持ちが悪かった。

 

 

 

私は、

取り繕わなくては、

人に不快感を与える存在なのだ

 

 

そんなセルフイメージが

こびりついてしまって、

 

素の低い声のままいる自分を

許せなくなってしまっていた。

 

 

 

同時に、

 

自分の行動が嘘っぽくて、

すごくはがゆかった。

 

 

 

それが、カンボジアに来てみてどうだろう?

 

現地の会社で働いていた時にも、

電話の時には普段以上に高い声を

出すようにしていたのだけれど、

 

 

嘘っぽい自分の高い声が

オフィスに響き渡るのを聞いて、

なんだか虚しくなった。

 

 

周囲のカンボジア人たちは、

普段と変わらない声で

通話をしている。

 

女性でも、低い位の声で

話しているではないか。

 

 

 

あれ?

 

電話の声は1トーン上げるべし。

 

これは、

日本のある場所だけで通用する常識なのだろうか?

 

 

 

色々と調べてみると、

欧米では、

「低い声の方が落ち着いた印象を与え、好印象」

などとも言われているらしいではないか。

 

 

 

やはり、

 

ある場所で常識と言われていることは、

 

ところ変われば、

180度真逆の非常識にもなりうるのだ。

 

 

その事実を認識してからというもの、

無理して高い声を出そうとすることはやめた。

 

 

電話では、

低くても不快感を与えない声を出そうと、

一応少しは心がけてはいるものの、

 

相手がどのような声に好感を抱き、

どのような声に不快感を抱くのか、

結局のところは、分からない。

 

 

それよりも今は、

自分の声をある種のバロメーターとして

使用している。

 

 

素に近い低い声が出ている時には、

「あ、今は自然体でいられているな」と思い、

 

自分でも分かるくらい

少々高めの声が出ている時には、

「あ、さては今、ちょっと忖度しているな?」と思ってみる。

 

 

今の私にとっては、

 

低い声を出している=人に不快感を与えている

 

ではなく、

 

低い声を出している=相手にも自分にも嘘をつかず、自然体でいられている

 

 

 

状態の捉え方が大きく変わったのだ。

 

 

自分を苦しめている「常識」のように見えるもの。

 

そんなものは、

ところ変われば、ないに等しいものかもしれない。

 

 

何かに縛られて苦しくなったら、

どこかまったく別の世界を覗いてみよう。

 

 

フッと、気が楽になるヒントが

そこに転がっているのかも。

 

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by カンボジア在住フリーライター HARU

 

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プロフィールを更新したのをきっかけに、

 

私が表現者にインタビューをする理由

について、
 

改めて記してみたいと思う。

 

-------

 

 

HARUが考える、
 

「表現者」とは?

「アーティスト」とは?

 

▼こちらもぜひご一読を。
 

【カンボジア在住ライターHARU プロフィール】

~すべての人の中にある創造性に光を当てたい~

 

 

-------

 

イラストレーターの父の影響もあり、

幼少期より、身近にアートがある環境で育った私。


 

大学では、ドイツ文学を専攻しながら、

美術、音楽、哲学など人文学を横断する

リベラルアーツの世界に魅了された。

 

 

10代は、摂食障害、アトピー

20代は、鬱、対人恐怖

30代前半は、原因不明の下肢痛
 

と、心身症のフルコースを経験。

 

 

「なんとか治したい」と

躍起になっていた時には、

 

決して治らず、

決して分からなかった病因。


 

「病をやめよう」と思い、

すべて完治した今になって思うのは、


 

いずれも、

不器用で表現下手な私による、

全身を使った自己表現だったのではないか?

ということ。

 

 

「もっと自分を大事にしてほしい」という、

私から私への必死の訴えだったのではないか?

ということ。

 

 

そして、

 

どんな人の中にも、

どんな形であれ、

 

必ず潜んでいるであろう

「自己表現欲求」というものに

興味を持つように。

 

 

誰もが人生の創造主だとしたら?

 

 

この世に同じものなど

決して存在しない、

バラエティに富んだ

一人ひとりの人生模様に触れてみたい。

 

 

人知れず静かに息づく命に

スポットライトを当てることで、

人生と人生が共鳴し合う場を創りたい。 

 

 

そんな想いから、
インタビューライターの仕事に魅了され、
表現者の声に耳を傾けるようになり、
今に至っている。

 

 

私として生まれてきた以上、

私が一番輝く人生を送りたい。

 

 

その願いは、

時代、世代、国を越え、

普遍的なものであるはず。

 

 

カンボジアを舞台にした発信の中に、

世界各地で生きる皆さんの人生とも

共鳴するものがあったなら、

 

それはそれは、嬉しい限り。

 

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4月のある日。

 

 

複数のアートギャラリーや

アーティストを取材するために、

 

カンボジア北西部にある

バッタンバンを訪れた。

 

 

バッタンバンは、

国内第3位の人口規模を持つ都市。

 

 

同時に、

国内有数のアートスクールがあることから、

多数のアーティストを

輩出しているところでもあるのだ。

 

 

この時訪れた場所の一つが

「Romcheik5 Art Space」

 

 

アートスペースの取材記事は、

オープン間近のWEBサイトにて

公開予定のため、

詳細は控えるとして。

 

 

今日は、この場所を訪れた時に

私の中で自然と湧き上がった、
 

「生きていてくれてありがとう」

という気持ちについて書いてみたい。

 

 

 

「Romcheik5 Art Space」は、

4名の若いカンボジア人アーティスト達

によって、

 

2012年に設立された

アートギャラリー兼スタジオ。

 

 

4名はいずれも男性で、

現在は30歳前後。

 

 

皆、バッタンバン随一のアートスクール

「Phare Ponleu Selpak」の

卒業生であるだけでなく、

生い立ちに共通点がある。

 

 

 

貧困や親の育児放棄など。

 

数々の問題を抱える家庭で育った彼らは、

親や親戚に強制され、

12歳位の時に隣国のタイへと送られた。

 

 

向かった先は、農場、港、工場など。

 

 

小さな肉体を駆使し、

過酷な労働に

従事せざるをえなかったものの、

実態は、パスポートもない違法就労。

 

 

しばらくするとタイから追放され、

バンに詰め込まれて、
カンボジアへと送り返されたという。

 

 

その後、NGOに保護された後に、

アートスクールに通うことになった彼ら。

 

 

彼らにとって描くことは、

言葉にならない感情を

表現することで、

幼少期に負ったトラウマを

癒す行為だった。

 

 

 

最近の作品は、

キャリア当初ほど

心の傷を直接的に

描いていないものも多いけれど。

 

 

4名が生み出すものはいずれも、

 

 

自身の内面と向き合い続け、
 

社会や人類に共通する問題と
対峙し続けてきた人にしか描けない、

 

メッセージ性の強い作品となっている。

 

 

 

時に、

観る者の心をえぐるような、

 

社会を挑発するような、

 

激しく、ゆがんだ表情の人物画や彫刻。

 

 

 

彼らの人生そのものが
何かを必死に訴えているような

作品を前にした時、

 

 

「生きていてくれてありがとう」

「今日まで生き続けていてくれてありがとう」

「生きて、あなたにしか見せられないものを見せてくれてありがとう」

 

 

彼らに対して、

そんな言葉がこみ上げてきたのだった。

 

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「趣味は何?」

 

そう聞かれた時、皆さんはすんなり答えられますか?

 

 

日常会話の中で、趣味を唐突に聞かれることは滅多にないかもしれないけれど、

 

自己紹介の際に、なんとなく触れておかないといけないような雰囲気があったり。

 

 

そのほか、思い出す限りでは、

 

就職活動のために書かなければいけなかった履歴書や

会社の社員交流を図るためのアンケートなどに

必ず入っていた、

 

「趣味は何?」という質問。 

 

 

私は、この質問がすごく苦手だった。

 

 

とっさに頭をよぎるのは、

「趣味なんてない」

の一言。

 

 

ないものを無理して答えなくてはいけないような気がして、辛かった。

 

 

そして、大概最後には、

 

「趣味:読書、旅行」

 

などと当たり障りのない回答をしていた。

 

 

 

長らく、これといった趣味のない自分を

「つまらない奴だな」と思っていたものだ。

 

 

 

しかし、ある時ふと気づいたのは、

 

趣味がないのではなく、

公言できる趣味がないだけなのかもしれない

 

ということ。

 

 

公言できる趣味、公言できない趣味とは一体何なのか?

 

 

いつも当たり障りのない趣味を答えていた私にとって、

 

公言できない趣味とは、

口にしてしまうと、なんらかの支障があると思われた趣味

だと言えるだろう。

 

 

では、支障とは何なのか?

 

 

これも私の場合だけれども。

 

相手の意表を突くようなことを言って

相手の期待を裏切ってしまったら

嫌われる、見捨てられる

 

という思い込みが根底にはあったように思う。

 

 

いつか、どこかで、誰かから言われた

「あなたは◯◯な人ですね」

というイメージを、

 

誰もが自分に対して抱くイメージだと勝手に思い込み、

 

誰かが抱いたイメージと相反するような趣味を答えてはいけない

と、思っていた。

 

 

さらにその奥を探ってみると、

 

誰かの期待に応えられない自分には価値がない

という前提があったのだろう。

 

 

昔から、

 

おとなしそう

クラシックやジャズなんかを聞いていそう

 

などというイメージを持たれがちだった私は、

 

 

それらのイメージにはまらない趣味を口にすることは、

相手の期待を裏切る行為だと思っていたのだ。

 

 

 

冷静に考えれば、

 

誰もが私という人間に対して同じようなイメージを抱くわけではないし、

 

趣味の話で、仮に相手の意表を突いたところで、何の問題も起こらないだろう。

 

 

それでも、長らく私にとって、

 

趣味とは、当たり障りなく答えておくべきもの

になっていた。

 

 

 

根底にある要因は違うかもしれないけれど、

 

「好きなことがわからない」

という人の中には、

 

私と同じように、

「公言できる好きなものがない」

だけの人もいるのではないだろうか?

 

 

「この場で、これを言ったらまずいのでは?」

 

そんな風にどこかで思い、

純粋な「好き」という気持ちを封じ込めてしまっているだけなのでは?

 

 

好きなものを好きと言えると、爽快感すら覚える。

自分の素直な気持ちに嘘をつかなくていい状態は、最高。

 

 

 

音楽の話では、

クラシック、ジャズが好きそうと言われる私だけど。

クラシックも嫌いではないし、特にドイツ歌曲はお気に入りだけれども。

 

 

 

実はそれ以上に、

 

ヒップホップが好き。

ストリートのリアルを歌ったギャングスタラップが好き。

成金的な「俺様自慢」の世界観も好き。

 

 

そんな些細なことですら、

最近になって、ようやく少しずつ公言できるようになった。

 

 

 

実際、口にしたところで、

何も悪いことは起こらないし、

 

口にすることで、 

共通の趣味を持つ人達との

新たな出会いがあったり、

予想外のシーンで世界が広がったり。

 

何より、楽しい(笑)。

 

 

 

公言できないだけで、本当はすごく好きなこと。

あなたの中にも眠っているのでは?

 

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by カンボジア在住フリーライター HARU

 

すべての人の中にある創造性に光を当てたい。

 

そんな想いから、カンボジアのアート・カルチャー分野を中心に、取材・インタビュー記事を執筆中。

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言葉の使い方がその人の価値観を表す

 

とはよく言われるけれど。

 

 

海外にいると、

その国で話される言葉から

その国の人々特有の価値観を垣間見て、

 

時にカルチャーショックを受けたり、

妙に納得したりすることがある。

 

 

その国にしか存在しない単語の起源を探るのも興味深いけれど、

 

世界的に使用される単語やフレーズの、

その国ならではの用法を知るのも面白い。

 

 

今日は、

"God bless you"のカンボジア的用法から、

「謝罪」に対するカルチャーギャップを感じたお話を。

 

 

"God bless you"

 

 

日本語に訳すと、

 

「神の祝福がありますように」

「神のご加護がありますように」
 

などとなるだろうか。

 

そもそも、日本では日常的にあまり使われない言葉かもしれない。

 

 

英語圏では、

 

くしゃみをした人に対し、

"(God)Bless you!"と言うのがもっとも一般的な用法だろうか?

 


 

その昔、

くしゃみをすると体内に悪魔が宿るとされていたことから、

悪魔払い的な意味もあり、相手の体を気遣う言葉をかける習慣ができたとか。

 

 

 

さて。

この"God bless you"という言葉。

 

 

とあるカンボジア人の方が使ったシチュエーションが驚きだった。

 

 

その方とは、かつて半年程クメール語(カンボジア語)を習っていた先生。

 

 

 

カンボジアではよくあることなのだけれど、

先生側の都合による、レッスンのドタキャンが頻繁に見られ。

 

 

「今日は体調が優れないので」

「今日は渋滞がひどく、時間までに教室にたどり着けないので」

「今日は親戚の誕生日パーティーがあるので」

などなど。

 

 

モノによっては、

「事前に分かっていたのでは?」という理由にて、レッスンが当日キャンセルになることがよくあった。

 

 

ドタキャン自体は、“カンボジアあるある”。

さほど驚かないし、今更激怒したりもしないのだけど。

(初めの頃キレていたことは、時効ということで・・・)

 

 

一番驚いたのは、

ドタキャンを伝える先生からのメッセージ。

 

 

普段は英語でやりとりしていたのだけれど、

授業を突如キャンセルする際に来たのが

こんなメッセージ。
 

I cannot do lesson today, because I have a birthday party of my nephew.

See you next time.

God bless you.

※再現

 

 

メッセージを受け取った時の私の反応は、

 

お、お、、おお〜。

お、おお〜。

 

 

本当に言葉にならなかった(笑)。

 

 

そして、

親戚の子の誕生日パーティに出席するという

キャンセル理由に対してもさることながら、

 

 

"Sorry"の一言がないままに、

"God bless you"という感じのよい言葉で

うまくまとめられた。

 

と感じ、ショックを隠せなかった。


 

 

要するに、
 

私の価値観においては、

自己都合で予定を直前にキャンセルすることは

謝罪に値することだったというわけだ。

 

 

そして、先生にとっては、そうではなかった。

 

自分にとって最善と思われる予定を優先し、

相手にとってもよい時間になるよう、祈っているだけなのだ。

 


 

もちろん、すべてのカンボジア人が

同じようなシチュエーションで

"God bless you"を使うわけではないだろう。

 

 

けれども、

約束を守れない時や、時間に遅れる時。

または、急遽予定を変更しなければいけない時。

 

カンボジアの人々の対応は、

この先生と同様であることが多いように思う。

 

 

彼らにとって、それらは悪いことではないし、

まして謝るようなことではないのだ。

 

 

 

今でもやはり、

ドタキャンはあまりいい気がしないし、

ドタキャンされたら、"Sorry"という言葉を期待してしまう自分がいる。

 

 

一方で、

心にもないことを言うのも

言われるのも好きではないので、

 

 

相手が謝罪すべきことだと思っていないなら、
謝罪の言葉がなくても仕方ないとも思う。

 

 

 

飲食店で注文内容を間違っても

「テヘ♡」と可愛く笑うだけで
謝らないスタッフにも、
いつも同じような葛藤を抱いている。

 

 

 

カンボジア生活は本当に学びだらけ。

 

自分の常識を疑う機会があちこちに用意されているのだ。

 

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日本の大型連休中。

カンボジアは連休でもなんでもなかったけれど、便乗してお隣のタイ・バンコクへ。

 

 

旅の主な目的は、

都会の空気を吸うことと、

ユニクロに行くこと(笑)。

 

 

東京で生まれ育った私は、

自然派を気取ろうとしてみたこともあったけれど、やっぱり無理で。

 

定期的に大都会の空気を吸わないと落ち着かない。

 

 

プノンペンから飛行機で1時間もあれば行けるバンコクは大好きな街で、なんだかんだで年に数回は遊びに行っている。

 

 

 

さて。

何度も同じ場所に行けば、目に入る光景も見慣れてくるわけだけれども、

 

その時に自分が身を置いている環境や、心の持ちようによって、見える景色が違うことってあると思う。

 

 

私の場合、

 

初めて東京からバンコクに来た時は、

「思った以上に都会だなぁ」

と驚いた。

 

プノンペンに住むようになってから初めてバンコクに来た時は、

「うわぁーー都会だ!!東京より都会じゃないか!」

と完全にお上りさん状態で、久々の大都会感にとにかくテンションが上がった。

 

その後、バンコク訪問が定例行事化してきてからは、

静かにテンションが上がりながらも、現地の住人になったつもりで街を楽しんでいる。

(本当に、近い将来バンコクに住むのが私の夢♪)

 

 

そんな中、今回の滞在で感じたこと。

 

 

それは、

 

街が造形的に見える!

 

ということ。

 

 

ショッピングモールやオフィスビルなどにみられる近代建築が個性的で面白いという要因もあるのだけど、

 

 

入り組んだ道路、電車やバス、人や車の波などの日常的な要素が一体となり、「カッコイイ景色」として、パッと目の前に立ち現れたような瞬間があった。

 

 

これは、たまに来る都会で、ショッピングに夢中になっていた時には見られなかった光景であって。

 

ある程度街に慣れ親しんできて、余裕が出てきた今だからこそ、見えるようになった景色のように思われた。

 

 

同じ景色から何か別のものを読みとろうと、ちょっと意識的に目を凝らしていた結果かもしれないけれど。

 

 

だまし絵を眺めていて、どうやっても見えなかった形が突如浮き上がってきた時と同じような、感動の瞬間だった。

 

 

 

 

そういえば、

日本でマーケティングリサーチの仕事をしていた頃。

 

とある大企業から受注した大型調査案件のレポート作成をしていて、来る日も来る日も棒グラフと睨めっこしていた時期があった。

 

膨大な作業量と、ミスってはいけないという緊張感を抱えて働いていた日々。

 

 

疲れ果てて終電に乗り込み、つり革につかまって、真っ暗な空に浮かぶ新宿辺りの高層ビル群を眺めていたら、

 

 

ビルがすべて棒グラフに見えてきたことがあった(笑)。

 

 

 

疲労半分。

会社と家を往復するだけの日々の中で、「せめて世界をちょっとだけ面白く捉えられないか?」という遊び心半分。

 

 

本当に、夜空に無数の棒グラフが立ち並んでいるようにしか見えなくなってきた頃には、内心感動の域に達しようとしていたのだけれど、

 

翌日同僚にシェアしたら、本気で心配された。

 

「だいぶお疲れのようだけど、無理しないでね。」

と(笑)。

 

 

 

 

 

住む場所に限らず、

同じ環境に身を置き続けると、

 

マンネリ感や停滞感を感じるようになることがあると思う。

 

 

毎日同じ景色を見ているばかりで、なんだかつまらない。

 

そんな時は、

 

だまし絵を見るように、同じ景色から違う世界を浮かび上がらせてみる。

 

 

これを意識的にやってみると、結構楽しいかもしれない。

 

 

在住5年目。

辺りの景色がすっかり日常化してしまったプノンペンに戻ってきて、そんなことを考えてみる。

 

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