現代の日本では識字率はほぼ100%(99.9%)と言われ、誰もが文字を読めるのが当たり前だと思われています。

しかし、中には「ディスレクシア(読字障害)」のように、文字が躍ったり歪んだりして見えるために、認識が困難な方々もいます。

学校教育が普及した今、読み書きができないケースは稀かもしれませんが、それでも文字が読めないことは、日常生活において計り知れない支障と孤独を生むはずです。

​文字が読めないことへの葛藤を描いた、ケイト・ウィンスレット主演の映画『愛を読むひと』をご存知でしょうか。
彼女が演じた主人公は、非識字であることをひた隠しにして生きてきました。

第二次世界大戦後のナチス裁判で、彼女は「命令書にサインをした主犯」としての罪を着せられます。
もし「字が読めない」と告白すれば、無実を証明して戦犯から逃れられたはずなのに、彼女はそれを恥じて黙り込み、無実の罪を被る道を選びました。

彼女にとって、文字が読めないという事実をさらけ出すことは、何十年も投獄されることよりも耐えがたく、重い屈辱だったのでしょう。
観賞しながら、そのあまりにも切ないプライドに、もどかしい思いが込み上げたのを覚えています。

​こうしたリテラシー(読み書き能力)において、「皆が知っていることを自分だけが知らない」という状況は、強い劣等感に直結します。

例えば子供の頃、前の晩のテレビ番組の話題についていけず、学校で話の輪に入れないことにどこか「恥じらい」を感じた……そんな記憶はありませんか?

​そして今、読み書きと同じように「パソコンやスマホ、LINEを使えること」が当たり前の時代になりました。

​8年前、同窓会の幹事を引き受けた際にLINEグループを立ち上げたときのことです。

ある友人は「ガラケーだから」と参加できず、また別の2人は「LINEはしない」と言いました。
そのうちの1人は特に頑なに拒否していたため、何か重大な理由でもあるのかと思っていました。

ところが後日、その彼が何食わぬ顔でグループトークに参加しているのを見かけました。
当時の彼は、単にLINEのリテラシーがないことを言い出せず、彼なりの劣等感から拒否の姿勢をとっていたのではないか。
今ではそう感じています。

​デジタルツールは、別に使わなくても、使えなくても困らないのかもしれない。

でも使えたら便利、便利なほうがいいなあ。(相田みつを風)

​時代は今、AIへと移り変わっています。

新しい技術に乗り遅れ、現代の「非識字者」にならないように。

意地を張るよりも、少しの勇気を持って「便利な世界」を覗いていたいものです。