TOSHI's diary

TOSHI's diary

Feel this moment...

本日は天理市内の万葉歌碑をご紹介します。

ぜひご覧くだされば幸いです。

それでは早速やっていきましょう。

 

 

こちらは天理市の櫟本駅になります。

文字通り全くの人がいない無人駅です。

時間帯によっては人の出入りも多そうですが。

櫟本駅の近くに和爾下神社というところがありますので、そちらに向かいたいと思います。

 

 

 

【万葉集3824】

刺名倍尒 湯和可世子等 櫟津乃 檜橋従來許武 狐尒安牟佐牟

さす(なべ)に 湯沸(ゆわ)かせ()ども 櫟津(いちひつ)の 檜橋(ひばし)より()む (きつね)()むさむ

そそぎ口のある鍋でお湯を沸かせよ、ご一同。櫟津の檜でつくった橋を渡り、コムと鳴いてやって来る狐に浴びせてやろう。

 

奈良時代から狐の鳴き声は同じように聞こえていたのでしょう。

因みに和爾下神社の鳥居を撮ろうと思ったのですが、

工事中で足場に囲まれていたため断念した次第です。

 

 

 

 

石の蛙に囲まれている男性は柿本人麻呂さんです。

和爾下神社の隣にはかつて柿本寺があり、そちらに彼の遺骨が葬られたそうです。

現在柿本寺は廃寺となっていますが、こうして柿本人麻呂が祀られています。

 

 

 

【日本書紀歌謡94】

石の上 布留を過ぎて 薦枕 高橋過ぎ 物多に 大宅過ぎ 春日 春日を過ぎ 妻隠る

小佐保を過ぎ 玉笥には 飯さへ盛り 玉盌に 水さへ盛り 泣き沾ち行くも 影媛あわれ 

 

影媛さんが天理市の布留から山の辺の道を通って、この場所を過ぎ、

平城山まで行ったという話になります。

奈良市の黒髪山にもこういった伝説が残っていた気がします。

 

 

JR天理駅に来てみました。

全国から大勢の人が来る駅というだけあってとても大きいです。

写真に入りきっていませんが、バスの横には巨大な遊具があります。

こちらにも万葉歌碑があるので紹介いたしましょう。

 

 

 

【万葉集2997】

石上 振之高橋 高々尒 妹之将待 夜曽深去家留

石上(いそのかみ) 布留(ふる)高橋(たかはし) 高々(たかだか)に (いも)()つらむ ()()けにける

石上の布留の高橋のように、心も高々と妻が待っているだろう夜は更けてしまったことだ。

 

 

天理駅前には万葉歌碑案内図が設置されています。

こちらに記されている五つの内、二つはご紹介したことになります。

それでは他の歌碑も探しに行ってみましょう。

 

 

 

【万葉集1353】

石上 振之早稲田乎 雖不秀 縄谷延与 守乍将居

石上(いそのかみ) 布留(ふる)早稲田(わさだ)を ()でずとも (なは)だに()へよ ()りつつ()らむ

石上の布留の早稲田は、まだ穂が出ずとも縄だけでも張っておけ。監視していよう。

 

 

 

山邊御縣坐神社を訪れました。

こちらにも万葉歌碑がありますので紹介いたしましょう。

 

 

 

【万葉集78】

飛鳥 明日香能里乎 置而伊奈婆 君之當者 不所見香聞安良武

()(とり)の 明日香(あすか)(さと)を ()きて()なば (きみ)(あた)りは ()えずかもあらむ

飛ぶ鳥の明日香の里を後にしていったなら、あなたのいるあたりを目にすることができなくなってしまうだろうか。

 

 

こちらは長柄運動公園にある万葉歌碑になります。

先ほどご紹介した歌碑と全く同じ内容ですので、割愛させていただきます。

ただ、崩されていない分、こちらの歌碑の方が読みやすい気がします。

 

 

一度ここで区切ろうかと思います。

天理市に来たついでに隣町の三宅町にも立ち寄ったので、

そちらに一基だけある万葉歌碑を紹介いたしましょう。

長柄運動公園から真っ直ぐ西に行ったところにあります。

 

 

 

長柄運動公園から真っ直ぐ西に向かうと、太子道という道路に行き当たります。

こちらにも万葉歌碑が残されていました。

花壇が一緒に設置されているのですが、この時は何も咲いていませんでしたね。

 

 

【万葉集3295】

打久津 三宅乃原従 當土 足迹貫 夏草乎 腰尓魚積 如何有哉 人子故曽 通蔶文吾子

諾々名 母者不知 諾々名 父者不知 蜷腸 香黒髪丹 真木綿持 阿邪左結垂 日本之

黄楊乃小櫛乎 抑刺々細子 彼曽吾孋

 

うち()さつ 三宅(みやけ)(はら)ゆ ひた(つち)に 足踏(あしふ)()き 夏草(なつくさ)を (こし)になづみ 如何(いか)なるや

(ひと)()ゆゑそ (かよ)はすも吾子(あこ) (うべ)(うべ)な (はは)()らじ (うべ)(うべ)な (ちち)()らじ (みな)(わた)

(ぐろ)(かみ)に 真木綿以(まゆふも)ち あざさ()()れ 大和(やまと)の 黄楊(つげ)小櫛(をくし)を (おさ)()す 刺細(さすたへ)()

それそわが(つま)

日が輝く宮、三宅の原を通り、じかに土を足に踏みつけて、夏草に腰を没しては苦しみつつ、さあどのような、人の子のためか、お通いになるよ、吾子は。もっともです。お母さんは知らないでしょう。そのとおりです。お父さんは知らないでしょう。蜷貝の腸のようにまっ黒な髪に、美しい木綿をもってあざさを結び垂らし、大和の黄楊の小櫛を押え挿している、刺細の子、それこそ私の妻です。

 

【万葉集3296】

父母尓 不令知子故 三宅道乃 夏野草乎 菜積来鴨

父母(ちちはは)に ()らせぬ()ゆゑ 三宅道(みやけぢ)の 夏野(なつの)(くさ)を なづみくるかも

父にも母にも知らせない子だから、三宅の道の、夏野の草に苦しんで来ることよ。

 

 

それでは再び天理市内の万葉歌碑を見ていくことにいたしましょう。

 

 

こちらは天理市役所前です。

尖った屋根が非常に特徴的なデザインをしています。

こちらに万葉歌碑が残されていますので紹介いたしましょう。

 

 

 

【万葉集3013】

吾妹子哉 安乎忘為莫 石上 袖振川之 将絶跡念倍也

我妹子(わぎもこ)や ()(わす)らすな 石上(いそのかみ) 袖布留川(そでふるかは)の ()えむと(おも)へや

吾妹子よ私をお忘れになるな。石上の袖を振る布留川の水のごとく絶えようなどと、どうして思おうか。

 

 

 

天理市といえば巨大な信徒向けの宿が特徴的ですね。

市内の中心部はこういった建物が多くあり、街並みを見ていても飽きません。

 

 

 

 

万葉集と関係ない話ですが、偶然26日に訪れていたため、

天理教会本部には多くの人が集まっていました。

巨大な教会本部の建物が立派だったので、ついでに撮影させていただきました。

 

 

市内中心部から東に向かうと歌枕でもある「布留」という地名が現在も残っています。

古代から現代に至るまで同じ呼称が使われ続けていることに、

歴史とロマンを感じるように思います。

 

 

 

 

布留を過ぎたところに石上神宮があります。

こちらも万葉集の時代から詠まれているように石上(いそのかみ)と読みます。

たくさんの鷄が歩き回っていてかわいいですね。

大鳥居の横に万葉歌碑が残されていますので紹介いたしましょう。

 

 

 

【万葉集501】

未通女等之 袖振山乃 水垣之 久時従 憶寸吾者

をとめらが 袖布留山(そでふるやま)の 瑞垣(みづがき)の (ひさ)しき(とき)ゆ (おも)ひきわれは

神おとめ達が髪を迎える袖を振る、布留山の杜の瑞垣が久しいように、長い年月をずっと恋いつづけて来たことだ。私は。

 

 

 

【万葉集1927】

石上 振乃神杦 神備西 吾八更々 戀尓相尓家留

石上(いそのかみ) 布留(ふる)神杉(かむすぎ) (かむ)びにし (あれ)やさらさら (こひ)にあひにける

石上の布留の社の年ふりて神々しい神杉のように年老いた私が、いまさら思いもかけず恋にとりつかれてしまったよ。

 

 

ここで少しだけ寄り道タイムといたしましょう。

石上神宮近くにある恵比寿神社にお邪魔することにしました。

 

 

 

【古今和歌集144】

いその神 ふるき宮この 郭公(ほととぎす) こゑばかりこそ むかしなりけれ

石上、古き都のあったこの地のほととぎす、その声だけが昔と変わらないものだ。

 

石上は古今和歌集を始め、他の時代の和歌にもいろいろと歌われています。

そういった歌碑も残されていますので、探してみると良いかもしれませんね。

 

 

それでは万葉歌碑巡りに戻るといたしましょう。

これよりご紹介する万葉歌碑は山の辺の道にあるものとなります。

 

 

【万葉集1088】

あしひきの 山川(やまがは)()の ()るなべに 弓月(ゆつき)(たけ)に 雲立(くもた)(わた)

足引之 山河之瀬之 響苗爾 弓月高 雲立渡

あしひきの山川の瀬音が激しくなるにつれて、弓月が嶽に雲の立ち渡るのが見える。

 

 

 

【万葉集212】

衾道乎 引手乃山尓 妹乎置而 山径徃者 生跡毛無

衾道(ふすまぢ)を 引手(ひきて)(やま)に (いも)()きて 山路(やまぢ)()けば ()けりともなし

引き手の山(龍王山)に妻の屍を葬っておいて山路を帰ってくると悲しくて生きた心地もしない。

 

 

 

山の辺の道をひたすら南へと進んでいくと、田んぼに囲まれた古墳があります。

こちらの道端にも歌碑があるのでご紹介します。

 

 

【万葉集1816】

(たま)かぎる (ゆふ)さり()れば 猟人(さつひと)の 弓月(ゆつき)(たけ)に (かすみ)たなびく

玉蜻 夕去來者 佐豆人之 弓月我高荷 霞霏霺

玉のほのかに輝くような夕方がおとずれると、狩人の弓――弓月が嶽に霞がたなびくことよ。

 

 

万葉歌碑のご紹介は以上になります。

次回からは山の辺の道の続きをご紹介したいと思いますので、ぜひご覧くだされば幸いです。

 

最後に小野小町と僧正遍昭の和歌をご紹介して終わりたいと思います。

 

 

 

天理市中心部から東部にある厳島神社にお邪魔しました。

こちらに歌碑があるので紹介いたしましょう。

 

 

【後撰和歌集・巻十七】

小野小町

岩の上に 旅寝をすれば いと寒し 苔の衣を 我に貸さなん

 

返歌・僧正遍昭

世をそむく 苔の衣は たゞ一重 貸さねば疎し いざ二人寝ん

 

小野小町「石の上で旅寝をすればとても寒いのです。苔の衣と呼ばれるあなたの法衣を私にお貸しくださいませんか?」

僧正遍昭「俗世を離れた法衣はただ一重ですが、お貸ししなければ薄情というもの。一枚の衣で一緒に寝ましょう。」

即席で意訳したので変だったら申し訳ありません。

そういう内容なのだと伝われば幸いです。

 

 

【古今和歌集248】

さとはあれて 人はふりにし やどなれや 庭もまかきも 秋ののらなる

里は荒れて、住む人は年老いてしまった宿だからでしょうか。庭も垣根も秋の野さながらです。

 

 

今回は以上になります。

最後までお読みくださりありがとうございました。

ではでは皆さんまたお会いしましょう。