むかしむかし・・・の親父の話 NO8 | おかんのブログ

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私の公開日記でもあり備忘録。
50代から始めて十数年。
シニアになって惚けたら読み返そう。

神奈川から栃木へ、からの2018年は熱海移住。
温泉三昧継続中~と共に、
町中華歩きも継続中~

今日はブログのアップが遅くなりましたぁ~

昨日の夕方、ブログ友のKAYOKOさんが来ました。

それで、いつもの如く、呑んだくれ~な夜に・・・ワイン グラスピザ

今、ブログにアップしている親父の写真なんぞを見まして、

「これが問題の爺いかぁ~」と・・・笑

写真をブログにアップしちゃおうかぁ~等など・・笑

まっ、詳細な話しはKAYOKO さんがアップすると思うので、

そちらをお読み下さい。。


ではでは・・・親父の話しを・・・


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そして、家を建てて、3年後にその終わりがやって来ました。


機械代金の手形の不渡りを出しました。

一度ならず、二度までも。

事実上、クリーニング屋は倒産です。


不渡り手形を出した後も、直ぐに閉店にはなりません。

機械代金・住宅ローン・材料費等の未払いがあっても、

数ヶ月は何もなかったように仕事は出来ました。


しかし、もはや先は見えています。

毎日、取りたての電話は鳴ります。


店がそんな状態になっても、親父の生活は変わりません。

店を潰したと、兄に怒ります。

兄がだらしないから、こうなったと責めます。

その言葉に兄は黙っていました。


店を建て直すかどうするかの瀬戸際の話し合いになった頃、

私はくたびれ果てていました。

今まで因業親父の作った一人舞台で、

賄われて来た事を痛切に感じました。

親父が作った舞台の上で、我々は踊らされていたのです。

しかしその演出者が突如、舞台放置したのです。

舞台上の私達はぼーぜんとするだけでした。


親父に連絡を取っても、中々自宅には戻って来ませんでした。

そして、最終的に、

親父は如何わしい業者に家を貸すと言い出しました。

そして「賃貸契約を結ぶ」と・・

現在は法律で禁じられている事ですが、当時は許されていました。


その契約は、貸す業者に2000万の借財の担保で、

住居を貸すと云う内容でした。

そして、この書類を公証人役場で作成しました。

こうする事で、住宅ローンの未払いがあっても、

簡単に競売に掛けられないと言う事でした。

だからと云って、私達がその家に住んでいられるものでもなく、

引越し資金の100万円を貰う事になりりました。

そして、私達が引っ越した後に、

その業者の人がそこに住み、

立退き料として、ローン会社から、

お金を巻き上げると云う事です。


この親父の指図に従ったのは言うまでもありません。

そして、引越しするまでの間、

私と兄は機械メーカーさんや他の業者さんとの話し合いをしました。

機械の残金は機械の撤収で、納まる額になり、

残額は相殺されました。

車の代金も、車を返却する事で、残額相殺が出来ました。

このよう店に関わる事に関しては、

殆ど残債を残す事無く処理が出来ました。

これらの処理をするのに、

私と兄は相手方会社に出向いたりと忙しく時間を過ごしました。


その間、親父は知らん振りでした。

自宅に顔を出す事もありませんでした。


私と夫との悶着は当然の事ながらありましたが、

流れに逆らう事も出来る筈もありません。

夫すらも、親父の舞台の役者だったのですから・・・


そして、引越しは私達家族と母と兄が同居出来る一軒家を探しました。

5DKの広い家でしたので、当時6歳だった娘の部屋も確保出来、

二世帯住宅に居た頃よりも快適でした。

しかし、わたしには、

夫の執拗なまでもの責め苦の日々が始まりました。


そして・・・・

私と兄名義の借財は残っていました。



続く・・・・・



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