『復興ストレス』伊藤浩志著 (2017) | 栃木避難者母の会のブログ

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自分達の過酷な経験が無にされることなく、次世代に原発事故の責任を持つ社会になって欲しいので活動をしています。弱者が弱者のまま、社会正義が堂々とまかり通る社会を夢見てます。「私」達には、地球の所有権があり、世界を変える力があると信じてます。

 著者は、震災当時、国立機関の研究者であったが、震災後、福島市に移り住み、福島で起きていることを住民目線で脳科学の立場から分析した本です。6年経過しても変わらない被災者の不安や心情が、合理性のあるものだとして大量の学術データや研究成果を通して解説しており、説得力があります。この本を読めば、これまで自主避難の母達が言葉では説明できず、放射能を怖がるのは心の問題だとされてきた風潮に対し、それは一面的な見方に過ぎず、論理的かつ科学的に整合のあることだとわかります。低線量被曝をめぐるリスクコミュニケーションの基底部にあることも、価値観の相違であるなど、目から鱗のような分析もあり、感服しながら、学ぶことが多い一冊です。

人間に対する真摯な姿勢と探求心に共感しました。このような人間の内面に根差した本質的論争を、実は、もっと早くに福島県民は一番求めていたかもしれません。やや学術的な本で難解な部分もありますが、勇気が湧いくる本です。

 

各章から一部メモ書きのように抜粋して、紹介します。

 

第1章 生物学的合理性から見た福島原発事故

必要とされる被災者の尊厳の回復(←まず、この言葉に感動しました。)

「事故直後から何も変わっていない」と訴える不安をどのように理解したらいいのだろうか。脳神経科学などの知見を踏まえて結論を先取りすれば、被災者の抱く不安感には生物学的な合理性がある。不安とは生物が進化の過程で獲得した生存の危機に対する警報装置だ。生物の警報装置もリスクに対して、過剰に反応するよう本能としてプログラムされている。

 

原発事故以来、被災者の心の中で鳴り響いている不安という警報装置は、日本社会が抱え込んできた社会の病を顕在化させてくれた。(←この警報装置が被災者は、今も鳴り響いています。)過剰な反応は非合理に見えるが、結果として、より確実な安全性を手にいれられる可能性がある。大げさに反応するこということは、記憶に残りやすく、同じ過ちを繰り返さないよう学習できることを意味している。被災者の訴える不安は決して過度な不安ではない。他人ごとでもない。いつ自分が当事者になるかわからない。

被災者の声に真摯に耳を傾け「もうこのような思いは誰にもしてほしくない」と願う被災者の置かれた状況に共感することで、潜在的な社会問題を共有することができるのではないか。(←絶対、そう思う)

  

第2章 脳神経科学から見た「不安」

不安とは生命が漠然とした危険にさらされたときに起きる情動のことだ。・・脳の偏桃体が破壊される病気の女性患者は不安を感じない。恐怖を感じたときに無意識に起きるはずの自律神経系の情動反応が起きない。

トカゲから人類に至る長い進化の歴史の中で偏桃体の機能が退化せずに保存されていたということは、危険を察知する「不安」という情動が、生存にとってきわめて重要な役割を果たしていることを意味している。

 

38億年前に誕生した地球上の生命は何度も大量絶滅の危機を乗り越えて生き延びてきた。トカゲが獲得した大雑把だが、素早い偏桃体の機能がそのまま人類まで引き継がれているということは、予防原則が生命の生き残り戦略として有効なことを進化の歴史が証明したことになる。正確さを追求するより、大雑把に素早く反応した方が生存に有利、それが経験に裏打ちされた生命の生き残り戦略だ。

 

不確実性の高い状況下では情動に基づく判断は理性的判断に比べ、相対的に高い合理性を発揮する可能性が高いことが示されている。

 

まず直感。理由は後付け。直感のメカニズム=人は情動を利用することで、瞬時に自分にとって何がハイリスクなのかを見分けることができるようになる。無意識のうちに意思決定の方向付けをしてしまう。情動反応がバイアスの正体。不確実性が高い場合、情動反応は理性より合理的な判断を行う可能性が高い。不確実性が高い状況下では偏桃体は活性化しやすい。

 

第3章 社会の病としての放射線災害

社会的な痛み(仲間から排除されたり、低く評価されたりしたことに対する不快な経験。孤立、格差、不公平に対する痛み)孤立している人ほど、死亡率が高い。不公平な社会ほど、犯罪率が高く、人と人の信頼感に欠け、社会的な結束力が弱く、健康水準が低い。

被災者は原発事故直後から、現在に至るまで、社会的排除による痛みを感じ続けている。(まさしく)そして、社会的排除による健康被害も発生し続けている。(まさしく)

 

原発事故は日本社会がこれまで抱え込んできた格差社会という「社会の病」の存在を、被災者の不安として顕在化させた。

 

女性の地位が高い州ほど、男性の死亡率が低いことがわかった。女性の地位が低い社会は男性間でも不平等、つまり社会全体が不平等であることが考えられる。そのような格差社会では社会的弱者である女性だけでなく、優位な立場にある男性の死亡率も高くなる

 

心が痛めば、実際に心臓が痛む配偶者との死別直後は、心筋梗塞のリスクが2.2倍になる。

(この言葉には本当に驚きです。私の周りでも、高齢者で避難先で心臓手術している人がとても多いです!!)疎外感などの社会的痛みは物理的痛みを和らげる痛み止め、アセトアミノフェノンの服用で和らげることがわかった。心と身体は別別ではない。

 

第4章 科学的リスク評価の限界

 社会的動物である人間にとって自分の生を支えてくれた自然、文化、地縁血縁を失うことによる社会的な痛みは生存の危機を意味する。・・なのに、今回の原発事故では放射線という量に還元できる基準以外の健康リスクは評価の対象外となる。社会の病は本人の心の問題として十把一絡げに切り捨てられてしまう。

社会学者の藤川賢は、健康リスクを居住地の放射線の数字で分けてしまったことで、リスクの共有、連帯意識の形成がしにくくなってしまった、と指摘する。住民同士が人の痛みを自分の痛みのように共感できれば「放射線に関わらず放射能汚染は問題だ」という認識を共有しやすい。住民の心を引き裂いてしまったことが一番の被害と被災者は訴える。

 

社会的動物として進化した人類は、自らの生存率を高めるため公平であることを求める。倫理・道徳は人間に特有の理性的で合理的な判断などではなく、他の動物にも共通してみられる情動反応を基盤としているようだ。人は公平さに対しては自腹を切って御礼をし、裏切り者に対しては、報酬を期待しないで処罰しようとすることが実験で確かめられている。

 

第5章 これからの安全・安心論議に求められるもの

 放射線被ばくの健康リスクをめぐる論争は、表面的には科学論争のように見えて、本当の論点は、「どのような社会が住み心地のいい社会と言えるのか」という価値観の対立にある。

 科学史・科学哲学の村上陽一郎は、安全性の議論には3つのバリエーションがあると述べている。一つはどこまで国家が国民の健康や安全を保障するのかという議論、二つ目はどこまで国民の自由と責任に委ねて国家の介入を抑えるのかという議論、3つ目は国民の自由を尊重することにおいて、敗者に回った人たちを社会はみすてるべきなのか、という議論だ。安全性の議論は、この3つの座標軸の間を行きつ戻りつしながら落としどころを求める作業だと指摘する。

 

筆者は、子供の貧困など格差が問題となる中で、超高齢化社会を迎える日本社会は、最も犠牲になりやすい人が最大の利益を得るような社会になることが、すべての人にとって住み心地のいい社会になると考える

社会的動物である人間は、自分と自分の子供の子孫の生存率を高めるため、弱者に共感し、公正さに快感を感じるように進化した。不公正に対しては本能的に嫌悪する。このことを裏付けるように以下のことが社会疫学の調査で明らかになってきている。

 

(1)一定の経済水準に達した国では、経済的な豊かさは寿命の延び、福祉の充実、幸福感に結びつかない。

(2)格差の激しい社会ほど、裕福な人も含めて死亡率が高く、公正な社会ほど、すべての階層で死亡率が低い

(3)格差そのものが死亡率の原因である可能性が高い。

(4)世界最高にある日本の健康水準は、格差拡大が続く限り、近い将来、悪化する可能性が高い

被災者は数十年先の日本社会の課題を先取りして肌で感じている「先生」である。その先生の声を充分に反映させるためには、ハザードの同定からリスクの評価に至るリスクアセスメントすべての過程に、被災者自身が積極的に関わっていけるかどうかがカギを握っている。そのためには、まず、言葉を失いかけている被災者が、安心してあるがままの自分の気持ちに素直に耳を傾けることができる場作りが必要である。