栃木避難者母の会(夜明けの会)

栃木避難者母の会(夜明けの会)

「核抑止力は根本的に間違っており、その間違いを証明しているのは、福島第一原発事故であり、原発避難者はその生き証人です。」田口卓臣教授 (2017.9)

 本年(2025年)3月に東京で 中高生10名による福島学カレッジ2024表現コースの展示会がありました。

 表現コース|アーカイブ(2024年度) | 福島学カレッジ

 

 門馬文佳さん | 福島学カレッジ

 

 10名のうちの門馬文佳さんは、母子避難の体験者。文佳さんは震災時、生後2ヶ月の乳児でした。帰還したときは2歳半だったそうです。本人は、避難していたことは覚えてないそうですが、ログハウスの家に住んでいたことは覚えているようです。数年後、福島に帰還しましたが、このたび、お母さまより、リアルな中学生の思いを知って欲しいと作文を頂きました。文佳さんの作文から、不条理な大人社会に直面しつつも、愛や信頼を失わず成長されていることに感銘を受けました。ぜひ、お読みいただけますと幸いです。

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  「私が福島で生きていくこと」 中学3年  門馬文佳

 

 私は昨年、「福島学カレッジ」という、震災を経験した福島を自分自身の視点でアートという形で表現するプログラムに参加しました。9月の途中制作展で出会った一つの作品が、私の心を大きく揺さぶりました。それは、東日本大震災の後に福島の人々が受けた誹謗中傷に向き合った作品でした。青く描かれた福島県の周りには、心ない言葉が並び、県全体が傷ついているように見えました。その上に、復興に向けて歩む言葉を鑑賞者が付箋に書いて貼っていくという作品で、心の痛みと再生の希望が込められていました。

 

 原発事故の後、「放射脳がうつる」「ノーモアフクシマ」など、福島を傷つける言葉がネット上にあふれました。中でも「貧乏人は福島の米を食って死ね」という言葉に、私は大きなショックを受けました。米農家として米を作る私の家族が、まるで価値のない存在のように扱われたと感じたのです。ある年、父は米の買取価格を見て「原発事故のせいで、福島の米は余所と同じ値段はつかない」と、悔しそうに話していました。私は怒りを感じながらも、言い返すことが怖くて何も言えず、学校でも震災の話題が出ることは少なく、もやもやとした気持ちを抱え続けていました。

 

 私はこれまで、福島への誹謗中傷を「自分には関係ない」「怖い」と無意識に避けてきました。でも、あの作品に出会い、人が言葉によって深く傷つけられることを実感し、見て見ぬふりをすることもまた、加害に近いのではないかと感じました。知らないことが偏見を生み、恐れが差別に変わる。私は今、自分の言葉が誰かを傷つけることも、誰かを守ることもできるのだということを意識するようになりました。福島に生きる一人として、この問題から目をそらさず、言葉にしていきたいと思います。

 さらに、誹謗中傷とは違うもう一つの現実も知りました。それは、震災後に帰還した人たちの中には、もとの地域に戻ることができず、新しい土地で暮らす選択をした人が多くいるということです。人間関係や地域環境の変化によって、元のコミュニティに戻れず、静かな分断が今も福島に残っている。その事実を知ったとき、「福島に戻れた」ということが、当たり前ではなかったと気付きました。

 

 私は修了作品をどんな形で表現すれば、自分の思いが伝わるのかとても悩みました。ネットには人を傷つける言葉が簡単にあふれ、現実でも原子力災害について語ることは避けられがちです。誰かを傷つけずに、自分の福島をどう伝えるか――私が選んだのは「箱万華鏡」で人の思いを表現することでした。

 箱万華鏡とは、合わせ鏡を箱状に組み立てた作品で、内側には絵が描かれています。覗き穴から中をのぞくと、絵が無限に広がって見える仕組みです。私はこの箱の中に、自分が残したい福島の風景や思いを込めました。さらに、箱の外から懐中電灯で照らすと、中の絵が動いて見える仕掛けになっていて、その明かりを“希望の光”に見立てました。

 箱の中には、地域の伝統やお祭り、風景を描きましたが、一つだけ、震災に関するものを入れました。そこには、薄れていく放射線の記憶と、当時少しでも安心して過ごせるようにと工夫してくれた母の思いも込めました。 震災後 学校では 「ガラスバッチ」という 放射線を測る小さな測定器を配られ 、 私はそれを首にかけて過ごしました 。 母は 、 そのバッジを入れる袋を 、 白いレースやビーズで 丁寧に飾ってくれました 。 みんな同じ袋を持っていた中で 、 私のだけ少し違っていて嬉しかったのを覚えています 。 けれど後になって母が 、「 あの時、本当は悲しかった。 まるで実験に使われているみたいで…」 その時初めて 、 母の不安ややるせなさに気づき 、 胸がぎゅっとなりました 。私にとってこの箱万華鏡は、誰かを傷つけることなく、自分の心の中の福島を届ける手段でした。そして、この作品がある限り、私は福島で起きたことを忘れずに生きていける、そう確信しています。

 誰かを傷つけずに自分の思いを語ることは難しい。でも、だからこそ、私は福島で起きたことを正しく語れる人になりたいと思います。 見て見ぬふりをするのではなく 自分の言葉で伝えることが 過去の出来事や大切な人たちを守る一歩になると信じています。 あの日から続く現実と向き合いながら、私はこれからも 自分なりの表現を通して、 福島に生きる人の思いや声を伝え続けていきたいです 。

  

(保護者公開確認済み)

 

 

今年度の 母の会新聞が完成しました。とちぎボランティアネットワーク様より、これから、栃木県内の避難者宅にお届けされます。今年で最後の新聞になります。(全部で12頁)

 

 

 

 NPO法人とちぎボランティアネットワークが提供する 第4火曜日PM7:00(~PM8:00)に始まる みんながけっぷちラジオ。「次世代に伝える 原発避難15年目ラジオ」(みやらじ77.3FM)で番組のコメンテーターをしている田中えりさんより、メッセージをもらいました。

 

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毎月第4火曜日の夜、宇都宮コミュニティFMミヤラジで『次世代に伝える。原発避難15年目ラジオ』を放送している。大学生が聴き手となり、「福島」や「原発避難」をキーワードにゲストをお呼びしてお話を伺っている。これまで、避難の体験談、中間貯蔵施設や最終処分を巡る問題、原発事故の風化防止、記憶継承の取り組みなど様々なトピックをお届けしてきた。私は毎回のゲスト探しや、番組の中で感じたことをコメントする役割を担当している。

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 私自身は福島県浪江町で生まれ育ち、大学進学のため宇都宮に移って1年が経つ頃、東日本大震災と東京電力福島第1原発事故が発生した。地元にいた家族は、私の暮らしていた宇都宮のアパートに身を寄せ、以来福島を離れて暮らしている。実家のある場所は現在も「帰還困難区域」に指定され、自由に立ち入ることさえできない。

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 私は、大学時代はボランティアで避難者支援活動に関わり、大学卒業後は新聞社に入り、地元・浪江町にも取材で足を運ぶようになった。 気付けば、原発事故が起きてから現在まで、何かしらの形で「福島」に関わる活動を、特に「伝える」活動を続けている。

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 この『原発避難ラジオ』はコロナ禍に始まった。震災発生直後から継続して避難者支援に関わってきた宇都宮市のNPO「とちぎボランティアネットワーク」が、コロナ禍で避難者が集うイベントを開催できなくなり、代わりにラジオという場で当事者に経験を語ってもらおうと始めた。ラジオの名称を「震災ラジオ」などとぼやかさずに、はっきりと「原発」という言葉を入れている点に、問題の本質を曖昧にしない姿勢がみえる。とちぎボランティアネットワークの矢野正広さんは「自然災害だけだったら、普通は暮らしていた場所に住民は戻れる。それができないのは、原発事故があったから。原発避難だから」と語る。

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 福島の原発事故について話すと「原発の是非」や「原発再稼働への賛否」が話題に上りやすい。それも重要な点だが、そのような“結論”を出すためにまず必要なのは、原発事故によってどんな影響があったか、どんな被害が起きたのかを正確に把握、検証し、社会で広く共有することではないだろうか。それらがないがしろにされ、事故は「大したことではなかった」と扱われる風潮があるからこそ、強くそう思う。

 

 原発事故が起きて真っ先に影響を受けるのは、その地で暮らしてきた人々である。土地を追われ、そこで続いていくはずだった生活が、未来が、奪われてしまった。だからこそ、ラジオではゲストとして来てくださる方お一人お一人のご経験やありのままの想いを聴かせていただく場にしたいと考えている。その上で「あなたはどう思いますか?」と聴いてくださる方に問いかけ、一緒に考えていきたい。現在や未来へ多くの課題を残している福島の原発事故が、人々にとって「遠くの出来事」や「終わったこと」になってしまわないように。

 

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本年度2回目の座談企画を実施しました。前半は 自治医科大学看護学部・島田裕子先生にお話しを頂きました。内容はこちら  (   9/14 座談会前半:自治医科大学看護学部 島田裕子先生のお話 | 栃木避難者母の会(夜明けの会))です。後半は、「住民票のない生活について」それぞれ話してもらいました。ここでは、トークの一部をご紹介します。

 

 

実施日: 2025年9月14日(日) 10:00~12:00

参加者: 自治医科大学看護学部 島田裕子先生

     NPO法人うつくしまNPOネットワーク(UNN)事務局長 鈴木和隆様

     Aさん:双葉郡 団体職員、兼業農家、震災時60代、避難指示準備区域(2017年3月 

                                       31日に避難指示が解除)

     Bさん:双葉郡 団体職員 帰還困難区域、震災時50代

     Cさん:双葉郡 主婦 帰還困難区域、震災時60代

     進行:母の会担当

 

進:  今日は「住民票がない生活」について、お話を聞きたいと思ってます。企画の意図として、福島原発事故による避難発生後、住民票の二重登録の必要性を伝えていた学者や弁護士がいたことを覚えてます。とても重要だと思ってました。住民票がないのでゴミを出すのも、非常に肩身が狭い思いをすると話していた声も印象に残っています。私自身、以前(2016年)、親の面倒を見た時に、インフルエンザ予防接種を受ける、介護認定を受けるのに毎年、避難元、避難先それぞれの自治体に報告や確認しなければなりませんでした。面倒を見たのは非常に短期間だったので救われましたが、住民票がない生活がどれほど、不便で過酷であるか、それを皆さまは14年間も続けておられます。住民票にまつわる話を何でも良いので、できればどんなことが不便であるか具体的に話をして頂ければと思います。

参考までに、本年7/19 下野新聞に掲載された小山市の避難者の詩を紹介します。(詩は下記に紹介)

日本では、毎年のように様々な自然災害がやってきて、私たちのような「広域避難者」が生まれております。水面下では非常に不便な生活をしていることも想像しています。

 

B:  家も建てたし、10年経った時、住民票を移す気持ちもあったけど、同級生の中で誰も移していませんでした。私は、震災前から毎月、親の命日にお墓参りをしていたので(お墓も近くにあった)、親のお墓を持ってきたいと思って今住んでいるJ市の共同墓地を購入したいと思ったのです。ところが、住民票がないと申し込めないということがありました。あと、私も、10年以上にわたる避難生活で知り合いがたくさんできました。市議さんや県議さんにも知り合いができ、お世話になっています。しかし、選挙権がないんです。「住民票を移したら、お祝いをするよ」、なんて言われますが、正直、簡単に判断できる問題ではないです。住民票を移したら、(故郷の)町が存在しなくなるという思いがあります。家族の中で住民票がバラバラなのもおかしいな、と思って移せていないです。

 

 

A:  ちょっとメモってもらいたいのですが、震災時の人口は・・、直近の人口は・・・(話を以下にまとめました) 

    震災時人口(町の広報より)  2024年11月末住民基本台帳

浪江町   21,434人     ⇒    14,666人

双葉町   7,140人       ⇒    5,303人 

大熊町   11,505人     ⇒    9,947人

富岡町   15,937人        ⇒    11,338人

 

  そもそも住民基本台帳の登録者数と、実際に住んでいる人口の数は違っています。そして、戻ってくる人も少なく、今後10年ぐらいで、どのくらいの帰還者あるいは移住者が増えるか、それぞれの町が目標をたてたり、試算したり、人口の維持には、とても苦心している。つまり、住民票を移すか移さないか、登録者数は、やはり自治体の存続に関わっていると思います。

  

※     2025年時点HP公開されている移住者数 

浪江町 2,251人       双葉町 170人       大熊町 1,345人     富岡町 2,565人

富岡町は「震災後に町外から移住してきた人が半数以上を占めて」います。(https://www.fukushima-iju.jp/city/TOMIOKA)

※     それぞれの町の目標数や予想数

浪江町 8,000人(2035年復興推進計画)    双葉町 2,000人、

大熊町 4,000人(2034年帰還人口+移住人口) 富岡町 5,000人(2034年)

 

A:  あと、私は、福島と栃木を行き来していますが、双葉郡の自治体で色々な行事やイベントがあります。参加して下さいと広報され参加したいのですが、避難先にいるとうまく参加できません。また、避難先で、敬老会の案内を見ますが、住民票がないので参加できません。民生委員が回る対象にも該当しません。双葉郡の民生委員は訪問してくれますが、福島県外に住んでいると、訪問してくれないのです。要するに、心のケアということが抜け落ちています。

 

C:   家も建て、お墓も持ってきたけど、地域に溶け込めるかと言うと この年になると難しいなと感じている。住民票も移さなくてはならないとわかっているけど、住民票を移したら、完全に故郷との縁が切れる感じがする。だから、移せないし、移そうと思わない。家族も同じ気持ちだ。

少し困っているのは、こちらで太陽光発電の助成を受けられないことかな。地域の高齢者活動でポイントも受けられない。あと、我が家は、守られましたが、友人のお孫さんは、学校に入る時に住民票を移してくださいと言われたようで、校長先生の判断によっても対応が変わってくるようです。家族内でも住民票がバラバラと言う家庭もいます。

 

進:  確かに、どちらにも属さない境界と言うか、グレーゾーンで、これを言ったらどうなるんだろうと判断が難しい立場を自覚させられてきました。我が家も子供が高校に入ってから、恐る恐る学校に問い合わせをしたら、「住民票を移してください」と言われ、私と子供だけ早急に移したことがあります。夫は福島県内で仕事をしていたので、移せませんでした。

 

A:  我が家は、震災後横浜に避難して、息子がこれからどこで働くかと考えた時に、福島県により近い栃木県内に本社がある企業を考え面接を受けました。そうしたら、「福島の住民票では採用できません。」と言われ、息子は住民票を移しました。すると、避難者登録から消され、救援物資がもらえませんでした。そして、やっぱり、住民票を戻そうと思ったのですが、もう戻せないと言われ現在に至っています。

 

C:  私は、1回は(他に移した住民票を被災自治体に住民票を)戻せるけど 2回は戻せないと聞いたことがありますが・・・。

 

進:  賠償やADRなども、時期が早いと認められなかったり、意見や苦情が重なってやっと認められたりしてきました。そして、救済される、救済されないかで、避難者同士で対立や分断も生まれ、メンタルにとても大きな影響を与えてきました。

 

鈴木:   避難者の話を聞いていると、今となっては、国は(県も)、広域域避難者を勝手に避難している(人達)と思っているのではないのでしょうか。

能登半島地震でも広域避難者が生まれていますが、原発事故の教訓が生かされていませんね。

 

A:   原発再稼働をするにしても避難計画を策定しなければなりませんし、国は責任を持って住民に避難指示を出さなければなりませんし、住民を守らなければなりません。でも、国のやっている東日本大震災復興計画と原子力災害復興計画は、本当に矛盾しています。例えば、今回の大震災によって、津波を対象にした「災害危険区域」は浜通りの各自治体で指定区域を指定し、このエリアでは、「住宅、アパート、ホテル、民宿、児童福祉施設、医療施設などの宿泊を伴うもの」は、制限され、それ以外の店舗や工場、倉庫などの建築は可能と明記されています。ところが、原発立地自治体の双葉町、大熊町では、ハザードマップはありますが、災害危険区域が定かではありません。津波浸水想区域は住民は住んではいけないと土地が買収されました。ところが、その区域に、原子力災害伝承館ができて、宿泊施設ができています。例えば 令和7年8月31日の津波注意報で 浜街道(県道)は通行止めになり、災害伝承館も閉館になりました。住民が避難していなくなった町に、箱物建設は認められる復興計画に違和感があります。双葉郡自治体で復興計画をつくってやっていますが、箱モノをたててやっていることはほぼ同じなんです。

 

※編集部で確認したところ、津波への避難行動はわかりやすいイラスト付きで、住民にとっても危機感を持てる内容でした。しかし、住民にとって危険なのは、津波だけではありません。原発はまだ収束しておらず、廃炉も道半ばです。津波を対象にした復興計画は住民の命を守るという意図が明確に提示されているのに対し、原子力災害の住民避難計画は従来通りの役所文書スタイルのままです。原発収束・廃炉作業は長期間に及ぶものですが、その間に想定される危機に対し、住民の命を守る責任所在は、立地自治体なのか、国なのか、どこなのか、今もってよくわからないことが改めて浮き彫りになりました。これでは、住民が安心して町に戻れないという実情があることも見えてきました。

    

進:   恐らく、復興は一見、町がやっているように見えますが、肝心なお金の使い方の法律は、国から、内容が決められているのではないでしょうか。だから、ほとんどが新規箱モノばかりが建設されているのだと思います。

 

鈴木:   双葉郡8町村など避難指示が出た市町村には震災直後から、経済産業省など中央省庁から復興支援のために多くの職員が現地入りしました。被災した市町村の復興計画策定にも強い影響を与えました。被災者の皆さんに寄り添うよりも、国の計画に沿ってしまった部分も多くなったかもしれませんね。

 

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「  住民票がありません」  北村 雅

 

2025年3月11日  

あなたはどこで迎えたか  

テレビでは復興した真新しい建物を

映していた

だがインタビューに答える人に

笑顔は見られない

本当に知りたいことは不透明で  

ニュースは真実を伝えていない

原発事故の避難者の悩みを 

知っているだろうか

帰る 帰らないだけではない

住民票がなくてこの地の選挙が 

出来ないのだ

私の住民票は双葉町  

福島県内の選挙なら今の住所で出来る 

でも栃木県内の選挙は出来ない  

住民票はそんなに簡単に移せないのだ 

これが原発事故の後遺症  

今後同様のことが起きたら同じ境遇が  

生まれることになるのだ

ふるさとを捨てる気などさらさらない  

原発事故で奪われたのだから・・・・

原発建設は国策だから 

最後まで見届けてくれないか 

知らないふりをしないで

 

※この事業は、うつくしまNPOネットワークの一食福島復興・被災者支援事業の助成を受けて

 活動してます。

 

 9/14(日) 午前中、本年度2回目の座談企画を実施しました。前半は 私達避難者が 大変にお世話になっている自治医科大学看護学部・島田裕子先生に自治医科大学看護学部の取り組みについてお話しを頂きました。具体的には、5月に私たちが話した発表について 生徒からの感想や意見のフィードバックもありました。また、この授業の狙いや取り組みについて、パワポを使ってお話を頂きました。

 

以下は、島田先生のレジメです。

                                       

 

 福島第一原発事故により余儀なく避難・移住をされた方の

 経験から学ぶ ―自治医科大学看護学部の授業での取り組みー  

                                2025年9月14日 

                               自治医科大学看護学部

                                 島田 裕子

 

■ 自治医科大学看護学部(以下、自治医大)では、4年生の授業「地域健康危機管理論」の中で、福島第一原発事故により、余儀なく避難・移住を経験された方々にご協力を頂き、経験談を聞かせて頂いています。

                   

■ この協力者のみなさんとの出会いについて少し説明します。本学の卒業生(宮城県亘理町出

身)が、卒業式を終え就職を間近に控えて太平洋沿岸部にある実家に帰省した2011年3月11日に、大津波にご両親と一緒に被災し、亡くなりました。自治医大が所在する下野市の当時の市長は、その学生が学生時代を過ごした下野市は、学生にとっての第二の故郷といえるとして、その事をきっかけに亘理町と災害時応援協定を締結し、亘理町への支援を開始しました。

 

■ その支援の一環として、下野市が2013年に亘理町の被災した方々を招いて行った交流会に、ふくしまあじさい会(以下、あじさい会)会の方々も招待されていました。自治医大の看護教員は、亡くなった学生の母校の教員という立場で招待され、その交流会が私が初めてあじさい会の方に出会うきっかけとなりました。その時に、会の方から、福島県から栃木県に避難している人達が定期的に下野市内の公民館に集まって交流しているが、元気をなくしている高齢者が多くいる、とお聞きしました。自分には行政の保健師として、住民への健康支援を行ってきた経験がありますので、何かお役に立てることはありませんか、とお尋ねしたところ、認知症予防などのレクリエーションを会の中で行ってもらいたい、と言って頂いた事がきっかけで、あじさい会のみなさんとの交流が始まりました。

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■ 震災から4年後の2015年からは、自治医大の授業の中で、あじさい会会員であった方に、被災の経験談をお願いして看護学生にお話頂くようになりました。栃木避難者母の会の大山さんは、あじさい会の会員の方からご紹介を頂き、お話をして頂くようになりました。経験談については、「原発事故後の避難から現在までの生活において、どの様な困難に直面したか、その困難を乗り越えるうえで助けになったこと、支えになっていること」についてお話を頂いています。お話の後には、質疑応答を通して学生と交流して頂いています。原発事故から14年目にあたる今年は、4人の協力者の方にお話頂きました。対象の4年生は当時小学1年生だった、105名です。以下に、学生の感想(一部)を紹介します。

 

【経験談を聞いた学生の感想】

●原発事故当時は起こっている事がよく分からず、不安な気持ちで生活していた記憶はあるが、あの時どんなことが起こっていたのか、どの様な思いを抱えながら被災した方々が過ごしていたのかを今回ご本人の言葉で詳しく聞くことができて、貴重な体験だった。

●成長した今だからこそ分かることができ、今の自分の日常生活は決して当たり前の事ではなく、とても恵まれているのだということを改めて実感した。被災者の方々は突然の災害によってそれまでの生活を奪われ、見えない放射線への不安の中で避難生活を強いられたり、大切な人や故郷と離れざるをえなかったりと、私には想像できないような困難を経験されていると感じた。

●今後(災害時を含め)どの様な状況においても、その人の立場になって考える力と寄り添う力を大切にしていきたいと思った。

 

■ その他の学生の感想としては、〈放射線災害の特徴と被災した方々の不安や困難〉〈災害時の人とのつながりや支え合いの大切さ〉〈被災を経験した協力者の生き方や生きる姿勢からの学び〉〈災害時の支援の在り方〉等についての沢山の感想がありました。

 

■ 協力者の方たちのお話は、このように看護職を目指す学生達にとって大変大きな学びとなっています。学生達が卒業後、災害発生時に看護職として被災した方々に避難所などで支援する時に、今回の授業を通して学んだ、人に寄り添うことや人との繋がりをつくることの大切さ等をふまえて、被災した方々の命や心身の健康が守れるような活動ができる看護職に成長していってほしいと心から強く願っています。

  

 

「共感し分かり合えることが心のケアになる」という言葉もありました。学生の感想からも、 私たちの状況を深く理解してくれていることがわかり、胸が熱くなりました。

「感涙に耐えて聞いていました」との声もありました。資料を準備し、熱意を持って話をしてくださった島田先生、誠にありがとうございました。

 

※この事業は、うつくしまNPOネットワークの一食福島復興・被災者支援事業の助成を受けて

 活動してます。