御嶽山の桜ロードの桜も見頃だよ。
長崎から帰ってきたら、桜が満開になっていました。
御嶽山の旧研修センター?の展望台も花見の人が来ていました。
炭素循環農法HPより
自然は人に何も要求しない
これまた、当たり前のことですが無施肥と言っても、植物が育つのに必要な養分や量に違いがあるわけではありません。
実際に無施肥・無農薬で作物を作っている者は多数います。
でも、詳しい養分供給の仕組みまでは、理解されていないのが実情でしょう。
理論的裏付けの欠如から手探り状態で多くの試行錯誤を繰り返し、安定した生産体制に至るまで遠回りをし、多くの労力と時間を費やしています。
そして、多種多様な農法が提唱され、また実践されています。
農法は農家の数だけあるとも言えますが植物が育つ基本的な仕組みは一つ。
その仕組みに沿わなかった時、作物は虫の餌となります。
虫の餌か人の食物かは、養分の供給の仕方(土壌環境や土壌生態系、養分バランスを保てるかどうか)で決まり、理論さえ分かれば無駄な苦労をすることはありません。
単純に考えて自然状態で虫に食われない植物があるのですから、それと同じ状態(仕組み)を再現すればよいわけです。
同じと言っても、何も全てを同じにする必要はありません。
時計の針は逆には回りません。
文明人が今更、サルや未開人の真似をしても始りません。
最も基本的、あまりにも当たり前過ぎて誰も気付かなかった「炭素」の循環の仕組みを同じにすればよいだけです。
要は自然の仕組みを知り、その仕組みを最大限に活かし作物を生かすこと。
仕組みさえ活かせれば資材を選びません。
反発を承知であえて言います。
化学合成、遺伝子組み替えか天然資材、非組み換えかは、本質的問題ではありません。
化学、天然に関わらず「肥」と「殺し」は御法度。
肥を与えた結果が殺し。
「肥」は人の勝手な思いであり、自然の要求ではありません。
いったい、「肥」という概念は何時の頃からあるのでしょう。
人が耕作を始めた千、万年?の昔からでしょうか。
現代農業の基礎となる「無機栄養説」を説いたのは「農芸化学の父」と呼ばれているリービッヒです。
彼はもっと重要な(凄い)こと(「窒素無用論」「腐食の栄養略奪論」)を説いているのですが現在に至るまで、それを誰一人理解・評価するどころか逆に誤りとしています。
自然は人に何も要求しません。
人が「肥やす」という傲慢な思いを捨て、真摯に自然と向き合ったとき、初めて自然の真(本来)の力(意志)が見えてきます。
そして「防疫」という概念から解き放たれたとき、自由を与えられます。
自然農法は「自由農法」でもあるのです。
自然の意思と人の思いが合致した時、自然は人に全てを与えます。



