正しいことを判断しようとすると間違いが入力されるという話 | 『潜在意識改革』思い込み改善専門ブログ

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思い通りになっているけど望み通りにはなっていない。
そんな自分に気づく時、すべてが変わりはじめます

そもそも。正しいことってなんなんでしょうか

 

その判断は正しい!って言っている人の「正しさ」の

基準にあっているだけだと思いませんか?

 

それか、もしくは

 

私以外の多くの人が「そうだ」と言っている

多数意見に基づいた判断である。ということなんでしょうが

 

 

本音をいうと

 

「どうでもいい」と思ってしまいます。

 

確かに、ルールがあることで「場」の均衡が

保たれていることは大切にする必要があるのでしょうが

 

だからといって「善」だ「悪」だと言うのは

 

なんだかわたしが以前言われた

「腐ったミカンの話」のようです。

 

かくいう私も思いっきり「善」だの「悪」だの

言ってた一人ですし、自分に対しても「白」か「黒」かの

判断しかしなかった時期があります。

 

周りからしてみたら

「思い切って”黒”」だったと思います。

 

わたしはいつも「白」でいたいけど、やってる事がみんな「黒」になってしまう

自分が嫌で嫌で仕方なかったんです。

 

そんな時出会ったのが「腐ったミカン」の話です

 

腐ったミカンが1人いると、みんな腐る!という

金八先生のアレじゃないですよ。

 

 

ちょっと、解釈が違うんです。

 

 

あれは腐っているこれは青い。という解釈を抜いて

事実「ミカンでしかない」という考え方。

 

 

これを聞いた時に脳天に雷がガーーーーーンって落ちたような

感覚になったし

 

と、同時に心がすーーっと軽くなりました。

 

変わらないものは「ミカンである」という事実だけ。

 

 

あの人がこうであるとか、この人はこうであるとか

自分はどうであるなんていう

自分の習慣化された感性を外して

 

それからは

わたしもその見方で人を見よう!って決めたんです。

 

が、、、

 

過去の私を知っている人にとっては

実にお気楽主義であると思われるかもしれないという

恐怖が襲って来ることもありましたから

 

とても私にとっては価値観の変更が難しかったです。

 

ですが、「難しい」と感じているという事そのものが

「正しさの追求」をしている状態だったんですね。

 

わたしはいつも

自分にとっての正しさを見つける事で安心したかっただけだし

勇気が持てなかった自分を認めてなかっただけ。

 

わたしが潜在的に信じている自分はいつも

自己卑下を繰り返していたし、周りにとっての「正しさ」を

体現することだったから、内心ではいつも怯えていたと思います

 

 

正しいことを判断しようとするほどに

「間違い」が入力される。というのは

 

本来自分を見失う。という事になるんです。

 

わたしは、「正しさ」を判断しようとして

余計なプライドを身に付け過ぎてしまったために

自分を見失ってしまったんですね。

 

 

これが間違いの元だったわけです。

 

今こうやって記事を書いていても、正しいだの間違いだの言って

「どうでもいい」「ク〇くらえ」と思っている自分がいます。

 

 

正しさは武器になり、自分を守りますが

裸の自分でいる事にどんどん恐れをつけて行きます。

 

 

それについては、過去の記事

「みんなそう言っている」の部分も見てみてくださいね。

 

http://ameblo.jp/tocco-hana/entry-12293641493.html