今年の大河ドラマは、江戸のメディア王と呼ばれた、蔦屋重三郎が主人公です。
2月も終わり、始まって2ヶ月がたちますが、滑り出しは順調ですね。
さて、メディア王とは、新聞、ラジオ、テレビ、映画、出版などのメディア業界に、大きな影響力を持つ人物を指します。
世界のメディア王としては、この二人が有名です。
まずは、ルパード・マードック、ニューズ・コーポレーションの創設者であり、世界中の新聞、テレビ、映画スタジオを所有しています。
次は、テッド・ターナー、CNNの創設者で、24時間ニュースチャンネルの概念を広めました。
今回の特集は、昭和のメディア王、角川春樹のお話です。
角川春樹は、昭和17年(1942年)、俳人で宗教家の角川源義の長男として生まれました。
國學院大學文学部卒業後、栗田書店と創文社で修行、1965年に父の会社、角川書店に入社します。
角川書店は、父源義が岩波書店を手本に、国史・国書の出版を目的とし創業したものです。
当時は、教科書関連の書籍が中心の地味な会社でした。
こうした中、朗読する音声を収録したソノシート付き「カラー版世界の詩集」企画刊行、大ヒットさせます。
その後も、ヒット映画、「ある愛の詩」、「いちご白書」の原作本などを、父の反対を押し切って出版し成功します。
また フレデリック・フォーサイスを日本に紹介したのも、角川春樹でした。
徐々に社内での立場も高まり、後継者として期待されるようになります。
1971年以降、忘れられていた推理作家、横溝正史に着目して、作品の再刊行を始めます。
1975年、父源義が死亡。
2代目社長に就任しました。
就任後、地味な社の方針を大転換し、エンタテイメント路線へと変針します。
出版事業だけでなく、映画やテレビとの連携を提唱。
横溝正史原作の映画「本陣殺人事件」を公開、同時に「帰ってきた横溝正史フェア」、と銘打った販売促進キャンペーンを展開しました。
この試みは成功し、横溝作品を580万部も売り上げたのです。
1976年に入ると、映画制作を担う「角川春樹事務所」を設立、本格的な映画製作へと舵を切りました。
こうして同年11月に公開したのが、「犬神家の一族」です。
映画のシーンを用いたテレビCMを放映するなど、画期的なマーケティングを行ったんです。
映画評論家や有識者の評判は散々でしたが、結果は大成功でした。
多くの観客が映画館に殺到し、配給収入17億円、純益7億円の大ヒットとなりました。
出版でも、このあと横溝作品は2000万部も売れたんです。
次いで制作した、森村誠一原作の「人間の証明」、「野生の証明」なども大成功、映画も本も大ヒットしました。
野生の証明のヒロインとして、デビューしたのが、14歳の薬師丸ひろ子でした。
映画を作成し、テレビ、ラジオ、新聞、雑誌などを動員して大規模な宣伝を売って、映画をヒットさせ原作の本を売ってもうける。
このやり方は、当時「角川商法」と呼ばれたものです。
春樹による角川書店の企業方針の転換は、「カルチャー」から「軽チャー」へだと揶揄されたりしました。
角川商法の絶頂期は1982年でした。
この年から、会社の経営を巡り弟と対立。
いわゆる、角川お家騒動が始まります。
当時、角川書店は社長の春樹が映画、弟の歴彦が出版を担当し、二人で共同して経営を担っていました。
80年代になると春樹は、自ら監督を務めるなど映画製作にのめり込み、制作費は高騰します。
その一方、興業面では不振が続き、好調な雑誌部門を率いる歴彦との間で、会社経営を巡って骨肉の争いが始まったのです。
1985年には角川三人娘の筆頭、薬師丸ひろ子が角川事務所を退所。
翌86年には、残りの二人、原田知世、渡辺典子が独立し、芸能マネジメント部門も廃止になりました。
この時期になると、メディア業界に強力なライバルが出現します。
フジ・サンケイグループの総帥、鹿内春雄です。
鹿内春雄は、フジテレビ・文化放送・サンケイ新聞などからなる、フジサンケイグループを率いて、フジテレビの黄金時代を築きました。
こうして、角川映画の勢いは失速していったのです。
その上、1993年8月には春樹がコカイン密輸事件を起こし麻薬取締法違反・関税法違反で起訴されます。
この結果、春樹は社長を辞任、弟の歴彦が新社長となりました。
2000年、最高裁で懲役4年の実刑が確定、2004年に仮出所するまで服役します。
春樹は、角川書店の株式を売却して得た資金を元にして、新たな雑誌や文庫を刊行、2005年からは映画制作に復帰しました。
復帰第1作の「男たちの大和」は大ヒットとなりましたが、以後の作品は興行的に振るわず、2020年公開の「みをつくし料理帳」が最後の作品となりました。
角川春樹の結婚歴は6回、離婚歴は5回。
モットーは「生涯不良。何か文句あるか」です。