昭和の末期には、日本映画は衰亡し、公開されるのはハリウッド映画ばかり、という時代がありました。
最近は、国産の映画が盛り返してきましたが、アニメと原作が漫画の作品ばかりです。
高齢者が、映画館に足を運ぶような作品は、まずありません。
私もここ7~8年は、映画館から足が遠ざかり、最後に見た作品も覚えていないありさま。
今回の「失われた昭和の面影」は、昭和の時代には、時の人気アイドルを主役として、必ず製作された青春映画、「伊豆の踊り子」です。
伊豆の踊子は、ノーベル賞作家、川端康成の初期の代表作です。
旧制一高在学中に、伊豆を旅した実体験を元に執筆されました。
この作品は、大正15年に雑誌「文芸時代」に掲載され、翌年の昭和2年に出版さています。
伊豆を一人旅する青年(私・20歳)が、下田に向かう旅芸人の一座と道連れとなり、
踊り子の少女(薫。14歳)に淡い恋心を抱く、旅情と哀感の物語です。
修善寺、湯ヶ島、天城越えと、舞台となる旅路もビジュアルですね。
日本文学の中でも、広く親しまれた名作です。
そんなわけで、昭和の時代、時のアイドルを主役にして、6回も映画化されています。
最初の映画化は、昭和8年(1933年)の松竹映画です。
踊り子は田中絹代が演じた、白黒サイレントの作品でした。
昭和8年のキネマ旬報ベストテン、9位にランクされています。
日本映画の黎明期の作品で、踊り子の田中絹代が、どう見ても少女に見えないのが難点です。
第2作からが、戦後の作品になります。
昭和29年(1954)年公開の、白黒映画でした。
主演は美空ひばり、一高生は石濱朗が演じています。
ひばりは、このとき17歳、時代を代表するアイドルでした。
公開時のキャッチフレーズは、「椿の花は咲いたけど なぜに咲かない恋の花」です。
第3作が作られたのは、昭和35年(1960年)。
制作は松竹、この作品からカラー映画となりました。
踊り子は鰐淵晴子、お相手は津川雅彦です。
津川雅彦と違い、鰐淵晴子は今では忘れられている感がありますので、簡単に紹介します。
ヴァイオリニストの父と、ハプスブルグ家の血を引くオーストリア人の母との間に、1945年戦時中の日本で生まれました。
父からヴァイオリンの英才教育を受け、天才少女ヴァイオリニストと騒がれたんですよ。
1955年、10歳の時に「ノンちゃん雲に乗る」に主演、原節子の再来と評されています。
踊り子を演じたのは、15歳の時です。
第4作は昭和38年(1963年)、日活の作品です。
主演は、吉永小百合と高橋英樹でした。
吉永小百合は、14歳で映画デビュー。
歌手としても、橋幸夫デュエットした「いつでも夢を」は、300万枚の大ヒットとなりました。
日活の看板女優として、1960年代を代表する大スターとなります。
吉永小百合は鰐淵晴子と同年昭和20年の生まれです。
踊り子を演じたのは、18歳の時でした。
映画の撮影を見学した川端康成は、踊り子姿の吉永小百合に、なつかしい親しみを感じた、と述べています。
5作目は、昭和42年(1967年)、東宝映画の制作です。
踊り子は内藤洋子、一高性は黒沢年男が演じています。
内藤洋子は、1950年の生まれです。
17歳で踊り子を演じました。
父は勤務医で、曾祖父の代から医業を生業としていました。
北鎌倉育ちのお嬢さんだったんですねぇ。
15歳の時に、黒澤明監督の「赤ひげ」で映画デビュー。
翌年のTVドラマ「氷点」で主人公の辻口陽子役で出演。
この作品が大ヒットとなり、スターダムを駆け上りました。
永遠の美少女と評されています。
1970年、20歳の時に音楽家の喜多嶋修と結婚して芸能界を引退。
その後、家族とともにカリフォルニアに移住しました。
最後の5作目は、昭和49年(1974年)の東宝映画です。
多くの皆さんが、ご存じのように、山口百恵と三浦友和が主演です。
山口百恵は1973年、花の中三トリオとして14歳でデビュー。
同年歌った、「ひと夏の経験」の大ヒットでブレイクします。
そして、翌年1974年に15歳で出演したのが、伊豆の踊子です。
出演した映画は13作ですが、その内の12作は、三浦友和と共演したものでした。
最後の、主演作「古都」が公開された、1980年に共演した三浦友和と結婚、21歳で芸能界を引退。
デビューから、わずか7年半の芸能活動でした。
まさに、1970年代を代表するアイドルですね。
戦前の田中絹代は別にして、戦後の5人の踊り子、皆さんは誰がお好みですか。
最後の「伊豆の踊子」が公開される2年前、1972年に作者の川端康成は、逗子マリーナのマンションにあった仕事部屋で、ガス自殺をとげました。
墓は、鎌倉霊園にあります。