大工町と云えば、水戸の代表的な風俗街です。
さて、今回は大工町のお話です。
水戸にはじめて花街が出来たのは、明治10年の下市でした。
江戸期から明治期にかけては、下市の方が上市より大店が多かったからです。
大工町が花街として産声を上げたのは明治14年のことです。
当時、大工町広小路の北奥から、狸信願寺町(旧泉町4丁目)の北側に広がるあたりは、水戸城外郭の土手が南北に延びる松の木が散在する荒地でした。
(大工町広小路にある交番)
ここに目をつけたのが、土地持ちで呉服商の宇野弥兵衛でした。
この人がこのあたり一帯を開発して花街を作ったのです。
自ら「常磐家」と言う芸妓屋を始めましたが、当初は東京の葭町から芸者を呼んできたそうです。
その後、「東屋」「萬屋」などもでき、芸者の営業の世話をする見番も作られました。
(旧芝浦見番)
続いて、「松泉楼」「山口楼」「扇屋」などの料理屋も出来て花柳界の形が整ってきたのです。
(現在の水戸山口楼)
明治日本の発展に伴い、水戸の代表的花街として年毎に興隆のいっとをたどりました。
大正に入ると花街は鳥見町一帯にも広がり、現在の天王町のあたりにも待合や料亭、芸者置屋もできました。
(これは京都の芸者置屋)
20年前、私が水戸に来た頃は、まだ天王町に見番の建物が残っていましたが、数年後には壊され今は駐車場です。
現在、当時の面影が残っているのは「武蔵」ぐらいですね。
さて、水戸の花街としての大工町が最盛期を迎えたのは、大正中期から昭和の初期にかけてからのころでした。
そんな、昭和6年に大工町の花柳界を宣伝する歌として作られたのが大工町小唄です。
当時の大工町から泉町にかけての情景が、歌詞に巧みに読み込まれています。
以下に、その当たりを取り上げて紹介しましょう。
1.水戸の大工町花揃い、梅のにおいよ桜の花よ
2.旦那横町の春の雨、傘もささずにあの色燕
3.朧月夜の広小路、後ろ姿がよく似た人よ
4.暗い横町の鳥見町、柳陰から揃いの浴衣
5.恋の情けの泉町、酌めば酌むほどなお濃くなる
水戸の大工町花揃い、恋の情けの泉町。
いい唄ですねぇ。
大工町小唄、ぜひ復活して欲しいですね。
私も、微力ながら応援します。