水戸芸術館と道を挟んで隣にある、京成デパート立体駐車ビルの脇に、小さなお社が張り付いた様に建っています。

 

このお社が、これからお話しする真木神社です。

 

 

水戸真木家の初代当主、真木隼人は越前の太守朝倉氏の一門でした。

 

 

朝倉氏が、一乗谷で織田信長により滅ぼされたあと、隼人は浪人となります。

 

 

徳川家康は、1603年に第10子の徳川賴宣を水戸城主とします。この時隼人は、藩士として賴宣に召し抱えられました。

 

頼宣が紀州和歌山に移った後の1609年。徳川家康の第11子頼房が25万石の城主となり水戸藩が成立します。

 

(徳川頼房)

 

水戸藩は、東北諸藩に備える目的で新設されたため、その家臣団も新たに編成されることになりました。

 

この時、頼房が頼宣に請うてもらい受け、準家老格3000石で家臣としたのが、真木隼人です。

 

そして、真木家の屋敷があったのが、現在京成デパート駐車場があるあたりでした。

 

隼人の子、真木景信の妻は、徳川光圀の異母妹、千姫(仙姫)です。

 

名門朝倉家の血を引くと云うことで、大変厚遇されていたのですね。

 

幕末期までの真木家の事績については、あまり伝わっていません。

 

さて、最後の当主が真木景嗣(彦之進)です。

 

彦之進は、郡奉行の一人として藩の財政再建を担当していました。

 

水戸藩はガバナンスの悪い藩で、幕末期は門閥派(保守派)と改革派(攘夷派)に分かれて争っていました。

 

過激な徳川斉昭(烈公)が藩主となり、この争いは頂点に達します。

 

そして、ついに爆発したのが天狗党の騒乱(元治甲子の騒乱)です。

 

天狗党の筑波山蜂起の隙をついて、水戸藩の主導権を握ったのは、市川三左衛門率いる門閥・保守派の書生派でした。

 

こうして始まった、内乱を収束させようと水戸藩主慶篤は、宍戸藩主松平頼徳を名代とし一軍を率いさせて水戸に派遣します。

 

この頼徳に率いられた軍勢を、大発勢と云います。

 

穏健な攘夷派だった真木彦之進もこの軍勢に従い、江戸から水戸に向かいます。

 

大発勢に多くの攘夷派が参集したため、結局水戸城を支配する書生派と攘夷派の戦闘になります。

 

真木彦之進は、那珂湊の戦いで一隊を率いて、敗れた書生派軍を追撃したと記録に残されています。

 

(元治甲子の騒乱)

 

その後、大発勢は書生派・幕府軍に降伏し、松平頼徳など主立った幹部は処刑され、彦之進も古河に流され最後は自死して果てました。

 

この真木家の屋敷内にあった社を移築したのが、現在の真木神社です。

 

神社横に立っている、縁起を記した看板にはマイク真木、真木蔵人親子が彦之進の子孫と記されています。

 

(マイク真木)

 

その根拠は、マイク真木本人が祖先は茨城県の出身だ。

 

と語ったことがあること。

 

TBSテレビのバラエティー番組「私の何がいけないの」で、マイクの祖先が水戸真木家と放送したことです。

 

NHKで放送中の同種番組もかなりいい加減ですが、民放のバラエティー番組ですから、この話はもっと信憑性がありません。

 

茨城県の真木家には、平家の名門小田家の一門、宍戸家の5代目、宍戸朝里の3男家里が、新治郡磯部村真木に分家を立てて真木姓を称した、別の系統があります。

 

マイク真木の先祖は、こちらの真木家である。

 

という説を唱えている専門家もあります。

 

さてどちらの説が真実かは、 「バラが咲いた。 バーラが咲いた。 どっちのバーラーが?」  

のこころだッ。