『凪待ち』監督ティーチイン@錦糸町 | トオボエ日記。

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物語りの余白大好き隊の一員として、香取慎吾主演抜きに純粋に楽しい映画『凪待ち』。

夫に無理を言って錦糸町の監督ティーチイン付き上映に行ってきました。

(20時予告・CM上映開始、20時15分本編開始、ティーチイン終了22時45分!帰宅したら0時超え。)

 

以前アップした六本木と府中の登壇上映のレポートは全部記憶に頼って書いたのですが、

なにせ推理小説を何度でも楽しめるザル頭な私、抜けがありすぎるので

今回はメモ持参で臨みました。が、監督が喋りはじめた途端、ペンのインクが枯れる悲劇。

(しかも監督の方を見ながら書いているので気付かないで書き続ける私)

今回のレポも基本、意訳とニュアンスだと思ってください。ごめんなさい。

 

以下、ネタバレ、ばればれです!まだ未見の人は読んではいけません。

 

***

監督が出ていらして、最初に挨拶。

「上映後、質問をしたい映画」という言葉が印象的でした。

 

物語の中で場面が転換するときの氷が印象的ですが、製氷工場、氷というモチーフは

本と映画、どちらが主導で決めたものですか。

物語を作るにあたり取材する過程で、津波からの復旧にはまず氷がないと話にならない、

だから製氷工場は最初に復旧した、という話があった。

そこで製氷工場は登場させることになって、その流れで小野寺がそこに配置された。

あの製氷工場は全面協力してくださった。

リリーさんはどこをどう撮っても「犯人」なわけですが(笑)

もともとサスペンスとしてやるつもりはなかったので…。

この質問者の方が「この映画ではだんだん氷が小さくなっていくのも印象的」とも仰っていて、

考察厨としては「うん、わかる、わかるよ!」と思いました。

それは決して監督の意図した演出ではないかもしれないけれど、そういう風にも読めるような、

いろんな印象的なモチーフも転がっていて、私たちはその余白で楽しく遊ばせてもらってます。

 

氷つながりで質問します。

冒頭の自転車に乗る郁男のシーンですが、

最初のガタンという音は氷の音でしょうか。

それは自転車の音です。

 

すでに○凪目なのですが、私以外にももっとたくさん観られている方がいます。

そういう方のためにマニアックな見どころを何か教えてください。

いや…困ったな…(と一瞬困ってから)

いろんな方がエンドロールに感動してくださっているのですが、

あれは船などはそのまま映しています。

今、海はきれいになっているので、実際に津波で流されたピアノなどを保存している方に

それは撮らせていただいて合成しています。

 

船のシーンがとても印象的です。

船の上だと美波にしても郁男にしても素が見える感じがします。

ラストシーンを海にすることは最初から決めていたのでしょうか。

実際に現地に行くと、震災のあと、防潮堤が作られていて海が見られなくなっています。

確かに防災の面では必要だけど、一方でそれはどうなのかと思うこともある。

(確かに映画の中の亜弓の台詞で「こんな壁作っちゃって」っていうのがありますね)

海は命を奪うものでもあるけれど、命の生まれるところ、帰るところでもある。

婚姻届を海に沈めるというのは脚本の加藤さんのアイディアで素晴らしい。

それは海で亡くなった方への宣言、亜弓への約束という意味があって、

大変象徴的なシーンになった。

 

いろんな方のレビューや考察を読むのが楽しい。

先日も郁男は元競輪の選手ではないかというものがあった。

郁男からナベさんに渡される自転車も印象的だが、

本作の中で自転車はどういうモチーフか。

郁男は競輪選手だったことはないと思う。

ただ、競輪が好きだから自転車が好きになったのか、

自転車が好きだから競輪が好きになったのか、その順番は分からないけれど、

好きだから買ったんだろうと思います。

ナベさんと言えば最初に自転車に乗ったときの生まれたての小鹿のような乗り方が

印象的だけれども、この映画の中で唯一自己完結しているこのナベさんが

最後は自転車に乗るのがうまくなっているのも面白い。

また、郁男っていうのは一度動き出すとどこまでも転がっていく人という印象があり、

それも自転車に掛けられている。

また郁男からナベさんに渡った自転車というのは、単純に二人の絆の象徴ともいえる。

(この「唯一自己完結している男=ナベさん」という言葉が監督の口からきけて、

私はそれだけでも今日のティーチインに来た甲斐がありました!)

 

監督の作品は世の中をフィーチャーした作品が多いが

今は月9で震災を扱っただけでもニュースになってしまうように

どこかタブーとされているような「震災」をテーマにしたきっかけを教えてもらいたい。

(この質問者は医療従事者で震災1年後の石巻にボランティアで訪れており、

その光景と劇中の光景に変化がなかったと感じた、と。

また、実際に現地でギャンブルにのめり込む被災者を眼にしていたとも)

自分も震災直後、義捐金を出したり、出来ることはやってきていたが、

何かしたいと常に思っていた。

また当時、その是非は置いておくとしても、普段映画を撮っていないような人が

現地で映像をとってドキュメンタリーとして公開していたりしていた。

そのとき、テーマは絆だったり、頑張ろう、というようなもので、どこか皆一緒だった。

自分はそれには乗れない、気持ち悪いと思っていた。

そして年月が経った今、あの頃ドキュメンタリーを撮っていた人々はどこへ行ったんだろうとも思う。

今こそ自分が震災に向き合えるタイミングだと思った。

 

ビスケットの蝿や、郁男がギャンブルにのめり込むタイミングでの画面の歪みが印象的。

蝿は普通にいっぱいいた。

普通にいる分には問題ないけれど、演者の顔を撮っているときに

顔にとまられたりすると困ってしまっていた。

どけてもどけても寄ってきてしまうので、もう撮っておこうと思って撮ったら、

美波の目線としてすごくよかった。

ああいう緊迫したシーンで、目線だけ別の物を見ているときってないですか?

 

自分はギャンブル依存症ではないので、ああいうダメだとわかっているときに

それでも行ってしまうという心理は分からないけれど、

ギャンブル依存症の人は本当にああいうギャンブルの場に行くと落ち着くんだそうです。(ナベさん!)

だから、ここでギャンブルのスイッチが入ったよ、と知らせる記号的な意図が

あの傾きにはあって、ある意味、観る人に寄せてる演出。

 

慎吾くん一人の登壇上映で、最後のニュース映像の笑っているナベさんを見て

郁男が微笑むのは監督の指示だと言っていた。

どういう意図の演出か。

この映画は自己完結しない人ばかり出てくる話で、みんな何かから逃げていたりする。

その中でナベさんだけは自己完結している人で、

それは間違っているけれど「成し遂げた」という笑いを浮かべている。

その自己完結した満足のさまを見て、郁男は確かに暴力的で間違っているんだけども

ある種こんな人間でも夢をかなえられる、という誇らしいような気分になる。

ナベさんはひとつのトリガー。

香取さんは1回観ただけではわからないくらいの絶妙な笑い方をしてくれて、

すごいな、と思った。

(質問者も2回目に見て初めて笑っていることに気付いた、と言っていた。

私も「口角上がってる!?」と思ったのは2回目以降だな)

 

***

 

以上、私のつたないレポートでした。間違っている箇所も多々あると思いますが、

ニュアンスが伝われば…。

 

最後に監督が〆の挨拶をしてくださったのですが、

「いろんな方がみてくれて、配給会社からも好成績と言われている。

ともあれ、まだまだたくさんの方に見ていただきたいし、自分も好きな作品なので

コツコツやれることをやっていきたい。

セカンドランも地方もこれから。

これからは上映館が多い映画とは違う展開の仕方をしていきたい。

業界の人もたくさん見てくれているし、この香取慎吾をいろんな人にみてもらいたい。

どんな演出をしたのかと皆に聞かれるけれど、僕は特に何もしていない。」

というような内容のことを仰っていました。

 

金曜は立川、日曜は池袋、そして23日は日比谷と新宿!

監督、たくさんの登壇上映、ありがとうございます。

何よりも、こんなに素敵な作品を作ってくださって、その主役に香取慎吾を選んでくださって

ありがとうございます。

 

心からの拍手を監督に!!!