こんにちは、とびとびはねこです。

この記事には、性表現や暴力表現、そしてそれに伴うわたしの考えが含まれます。
少し過激に感じる方もいらっしゃるかもしれませんが、
どうかひとつの「視点」として読んでいただけたら嬉しいです。

 

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わたしは「未成年者の性的コンテンツ閲覧の"全面的な"禁止」には、基本的に反対です。

そうではなく、「愛を表現しているもの」と「暴力を表現しているもの」を区別し、ラベルを貼るべきだと考えます。(アナログデジタル問わず)

未成年に規制すべきは「暴力」の方です。大人たちもまた、「これは暴力である」と自覚したうえで、そうしたコンテンツを目にする必要があります。 

その区別をせずに、「性的コンテンツ」という大きな括りだけで扱うから、愛の表現全般が制限されているのです。

それにより、若者たちと、かつて若者であった大人たちは、愛の表現方法を学ぶ機会を失ってきました。

それはつまり、他者の体と心を尊重することを学べないだけでなく、"性的な存在である自分自身"を愛する機会を持てないという意味でもあります。

ただ、「大人になったら結婚して子供を持つんだよ」と言われるだけで、「どのように自分自身および他者と健全な性的関係を持つか」については、誰も教えてくれないのです。

 

一方で、暴力を含む性表現も、“存在する事実”として見つめ直す必要があります。

それらをエンターテイメントとして消費するのではなく、倫理的な議論の題材にするのです。

「なぜこれは暴力なのか?」 「なぜこの出来事を避けなければならないか?」 と、人々が語り合うための教科書になります。

タブーとしてそれらを規制することは、必要以上に人々の好奇心を煽るだけで、本質的な制限にはなりません。

暴力の性表現は、人の心の中に闇が存在しているという事実の証明なのです。

"現実化された思考"だと言えます。

わたしたちは、存在するものを一つたりとも否定することはできません。

どんなに見たくないものでも、なかったことにすることはできないのです。

だからこそ、語る場と視点が必要です。

それらを直視し、自分がどう思い、どうしたいか、どこに問題があるか、どうすればそれを手放すことができるのかを、ともに語り合う場があればいいと思います。

形を持って現れた闇は、わたしたちひとりひとりが自分を見つめ直すために、この世に現れてくれた叡智なのです。

 

もし、暴力的な性表現に惹かれるなら、その事実を真摯に受け止める必要があります。

「なぜ?どうして?明らかに愛ではないものに、どうしてこんなにも惹かれるの?」と考えるのです。

 それは自分を知る、またとない機会です。

大抵、人は自分のことを知りたくないものです。 本当のことなど誰も知りたくないのです。だから、闇が存在しないことを願います。

けれど、だからこそ、人が"自分自身を知る"勇敢な道を歩み始めた時、 暴力の底にあった本当の想いが明らかになります。

すると途端に、暴力は"暴力である必要性"を失うのです。

 

最も誤解されたタブーであるために、性を題材としましたが、すべてにおいて同じことが言えます。

スマホを見る時間を減らし、仕事をする手を止めて、会いたくない人に会う時間を減らし、

自分自身に語りかける時間を増やすのが、世界平和への最短の道です。

 

人を殴りたくなるのは、自分で自分を被害者に設定しているからです。

世界は被害者に溢れています。被害者が暴力を生み出すのです。

「わたしをかわいそうにしているおまえが悪い。悪者は報いを受けて当然だ」 

すべての争いは、この思考から生まれます。

自分がかわいそうだと思うのをやめた時、人はやっと振り上げた拳を下ろせます。

自分自身との対話は、"かわいそうを終える旅"です。

自分がかわいそうなのは、誰かが自分をかわいそうにしたからではなくて、自分が自分をかわいそうだと思っているからです。

かわいそうを終えましょう。

被害者を終えて、主権者になりましょう。

主権者の世界は優しい。誰もが自分に微笑みかけます。

たとえ誰も微笑んでくれなくても、自分が微笑めば、世界もまた微笑むのです。

これが、人類が平和を手に入れるための、最短であり、唯一の方法です。