続きでございます。
 一冊の音楽雑誌で、当時の雰囲気をお伝えしようとするのはなかなかに無理があるのは承知の上なんだけど、まあ、「一冊」であるってのが何かいいんじゃないかって気がしてね。まあ、最初の試みなんで、これからも色々やっていきますが。
 
 で、やってみて思ったのが、さすがに当時の「音楽誌」ってのは「雑多」な感じがするんだよね。「専門誌」もあったんだろうけど、一冊に「洋楽」「邦楽」は言うに及ばず、「フォーク」「ロック」「ジャズ」までも同居して、読者もそれらの音楽ジャンルをクロスオーバーして楽しんでいた感じってのかな。ま、言ってみると若者向け音楽と言われる音楽ジャンルがあまりにも多様化してきたので雑誌の方で追いつかなくなってきた頃……今では当たり前なんだけど、若者の音楽=、=(イコール)の右ッ側が果てしなく増えてきてしまって途方に暮れている感じがするんだよなあ。まあ、聞いている方は別にジャンルを気にする事なく雑多が楽しいって思うようにはなっていたんだけどね。長じて現在の俺のようにジャンルって全く無意味だと思うような音楽バカが存在するんだけどさ。
 
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 ま、能書きは止め止め。面白くもない。
 で、2回目はまず、ミュージシャンにアンケート(インタビュー、とは書いてあるけど)のようなものを取っているので、それを見てみよう。各種アマチュアコンテストを主催していたヤマハならではの感じだが、素人さんに向って「とにかく人前で、ステージに上がって自分を表現してみようじゃないか」と呼び掛け、ま、プロの方々にその辺のアドバイスを、というインタビューである。
 









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 泉谷らしい話である。この「青い森」での泉谷の武勇伝ってのは数多くあるらしい。そうそう、この後、拓郎/小室さん/陽水/泉谷で例の「フォーライフレコード」を始めた頃、拓郎のオールナイトニッポンでこの四人が集結した時があった(前々回のアーカイブ話の時の深夜放送アーカイブCDに「音楽」部分だけは収録してある。ま、この時の放送自体も丸ごと録音してあるけどね。その話はまたいずれ)。で、その時に四人それぞれの過去の苦労話みたいなものを語り出した時に陽水が、
「俺はね、あんた(泉谷)に感謝してるんだよ。あんたがね、客に『なんでお前ら前の歌手(陽水)の時にちゃんと聞いてやらないんだ』って説教してくれたじゃない」
 と、例の力の抜けたトーンで言っていたのを思いだす。で、その時拓郎が、
「え? 陽水の唄を全然聞かないなんてあり得るのかよ」
 と言うと、泉谷が
「いや、あったんだよ。ぺちゃくちゃ話していて全然聞かないんだ。だって、俺が(人のために)怒るくらいだからな」
 てなことを力説していたのをまたまた思いだしてしまった。
 







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 大雑把に「キャロル」ってしてるが、語っているのはおそらく「永ちゃん」でしょう。この写真、矢沢永吉だよね、多分。何か、ざっくばらんに話してはいるが妙に真面目なんだなあって思わせるとこが、後々の矢沢節を彷佛とさせますなあ。しかし痩せてる!
 




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 またまた大雑把に「オフコース」となっておりますが、小田/鈴木どちらのご意見でしょうか。エンケンもこう言う時は結構真面目に答えるんだよね。まあ、それでもどちらも「頑固」であるというのは文脈からひしひしと伝わりますなあ。
 
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 で、そんな答の中で、陽水はこれだ。
 ったく、当時からこんな調子。変わりませんなあ。あ、ちなみにこの号「1973年9月号」の時点ではまだ陽水は「氷の世界」を発表してない。これが世に出るのはこの年の12月。そしてミリオンセラーとなり、一大陽水ブームが巻き起こるのはもう少し先の話である。
 


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 で、時代は「フォーク」からさらに「ポップス」へ移行し始めている。
 ま、ここで取り上げられているグループはまだまだフォークよりな感じだが、それでも歌謡曲でもないフォークでもない新しい波がひしひしと感じられる特集だ。
 ただ、この後何年も「ポップス派」は苦闘の日々を送る事になるのも確かだ。奇しくもこの年、山下達郎はシュガーベイブを結成。1975年に名盤「SONGS」を出すが、シュガーベイブ/山下達郎ともども、その後苦闘の日々が続くのは歴史の示す通り。エラソーでも先見の明でもないが、当時出たばかりの「SONGS」は俺らの間では愛聴盤であった。もともと俺ははっぴいえんどの大ファンであったから、その流れは当然と言えば当然なんだけど。
 





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 で、この時の洋楽新譜。
 レコード評のコーナーは、その選者がなかなかに素敵で、このジョージのアルバム(俺は大好きなアルバムだ)の評は「林哲司」。その他「洪栄龍」「中川五郎」「松本隆」「及川正通」(そうそう、表紙のイラストは言うまでもなく「及川正通」です)……等々、評論家と言うよりはミュージシャンなどが多いのがこの雑誌の特徴だ。ま、まだ(ロックやポップスの)音楽評論家ってのが確立されていなかったのかも知れないけどね。
 






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 で、拡散していく音楽ジャンルの中で、このように「歌謡曲」を取り上げ始めたのもこの辺りからか。ただ、この記事はあまりに通り一遍で面白くも何ともないんだけどね。まだまだ歌謡曲が「敵」と目されていたような雰囲気が濃厚に漂う。歌謡曲を歌謡曲として楽しむような視点が出て来るのは、70年代も終わりを待たなければならないかな。それも「プロ」側からのアプローチではなく、いわゆるミニコミ、「アマチュア評論家」の登場によってその辺りは開拓されて来る(「よい子の歌謡曲」とかね)のだが、それはまた別の話。
 あ、当時赤塚不二夫が「天才バカボン」(だったよなあ)の表紙の所で、
「前は「サユリスト」だったけど、山本リンダが『ぼやぼやしてたら、私は誰かのイイ子になっちゃうよ』って唄っているから俺は「リンダスト」になりまーす」
 てなことを書いていたのを思いだした。ホント、この頃の赤津不二夫は凄すぎる!
 

 
 などと舌足らずな感じで「ライトミュージック」73年9月号を眺めてみた。時代の匂いや雰囲気を感じ取っていただけたか、それとも単なる懐古趣味になったのか、ま、どちらでも俺は構わないんですけどね。では、次回はもっと拓郎寄りな話を……そりゃそうだ、そういうためのブログだし……いっぱいしてみたい。