中学生くらいの頃
例えば 黒柳徹子さんの番組などで
いわゆる途上国の子どもを見るたび
水も食べ物も(充分)ない国に私が生まれたら
何を思うのだろうと


考え始めると、
決まって思考の迷宮に迷いこんだ。
イヤとかそういうのではなくて


存在、というのか


もしそこに私が生まれて
その国の子どもだったら
そこにいる私は
今の私なんて知らなくて
最初から
その国にいる私なのだから


この私を知らないあの私が
この私に思いを馳せることはなくて


その国に生まれた私は
その国の子どもで
その国にいるのが当たり前で
水汲みに何キロも歩くのが
当たり前の生活で
生きていくために当たり前で 


生きていくために仕方ないとか
そんなことも
もしかしたら考えたこともなくて
その国に生まれた意味なんてことも
考えることはなくて


そうすると
今ここでこんなことを
思っている私は
いったいどこへいってしまうんだろう


何を思うんだろうと考えること自体が
無意味なのだとしたら
今ここでこんなふうに考えている
私の思いも無意味なんだろうかとか


不思議な思考の迷宮に
迷いこんだような気がして
とてもとても不安なような


どこにいる私でも
そこにいる私が
本当の私なのだから


どこに生きていたとしても
今こんなふうに考えている私じゃなくて
今の私と比べる私じゃないのだから
大丈夫なんだと、
何が不安で 何が大丈夫なのかも
わからないままに


真っ黒な大きな瞳で大きなお腹で
虫が飛んでいても払うこともできない
私より小さなこどもの姿を見ながら
どうして私はここにいて
あの子はあそこにいるんだろうかと
そんなことを考える子どもだった。


(追記部分)

その国いる誰かが ここにいる私を
羨ましいなどとと思うことがないのなら
(あちらは私の存在を知らないのだから)
私がここでテレビを見て知った誰かのことを
かわいそうだと思うことは
とても失礼なことなんじゃないかとか



あの頃は人間にとって
なにが幸せで何が不幸せとか
自由とか不自由とか心の豊かさを
やっとぼんやりと感じ始めていた頃で


頭の中でぐるぐると
よくそんなことを考えていた。



なんとなく
文字に起こしてみたくなった
私の頭の中。



今日もお疲れさまでした。