誤解を恐れずに言えば、それが
不倫する人 不倫できる人に対する
評価の一つということではないでしょうか。


どれだけいいことをしていても、
いいところがあっても、
不倫しているというだけで
色眼鏡で見られてしまう。


不倫している “だけ” とは
捉えない人がいる。


何を言ってるんだと
失笑されてしまう。
説得力の点で欠けてしまう。


それが人としての “信用” ということ。
職業の非難や差別ではなく
不倫をしていた人の言うことだから
不倫をしている人の言うことだから。
(一方しか拝読していない個人的な見解です。)


それは差別なのでしょうか。
人間性に対する評価なのでは
ないでしょうか。


それが不倫でなかったとしても
世間から非難されるようなことをして
公の世界から消えてしまっても、
傷の舐めあいではなく本気で叱り
全てを受け入れて庇ってくれる人
守ってくれる人が身近にいる人。


それまでの行いや個人個人の関係性や
色んな要素があるだろうけど、
それもまた人間性に対する評価なのでは
ないでしょうか。


実際に不倫に寛大な人もいれば
行いと分けて考えられる人もいるでしょう。
友達が不倫していたら
諌めながらも寄り添ってくれる人も
いるでしょう。
でも、何をおいても
『【でも】不倫してるんでしょ』と
なってしまう人もいる。


人の道に反するということは
そういう評価をされるかもしれない
ということです。




意見を対する人と一生関わらないで
過ごせればいいですが、


例えば
自分の子に大切な人ができて
その人との将来を考えたとき、
お相手の親があなたの不倫を知って
そんな親の子どもとの交際は反対だと
言われたら、どうしますか。


それでも自分ではなく、それを認めない
相手の親のせいにしますか。
それでもまだ自分が被害者だと言いますか。


例えば 本当に本当に万に一でも、
あなたの子どもさんが好きになった相手が
不倫相手の子どもさんだったらどうしますか。


例えば極端な話、
家族が病気になって、唯一それを治せる
お医者がこの世でただ一人、
あなたが裏切った人傷つけた人だったら
どうしますか。


その時にも不倫している人してきた人は 
自分は正しかったと、
あの時は仕方なかったと、
不倫してるけど、してたけど
子どもが、家族が一番大切だったと
言えるのでしょうか。


途中で引き返すこともせず
けじめをつけなかったことも、
自分をコントロールできなかったことも


それを誰かのせいにして積み重ねて
その結果が招くかもしれないことを
想像できないことも


起こってもいないことを
考えても仕方ないと言うのでしょうか。


そんな人には
こんな文章や言葉のなにひとつ、
届かないのだろうけど。