四角オレンジこのブログは不倫とは
関係ありません。不倫に関しては
主にテーマ『思うこと。ふ』に書いています。


主観。頭の整理のために。
自分の思いを自分の意思で書く。
(1/2に言葉遣いなどの変更と追記あり。)

最初に自分の絶対的な考えを記して
おこうと思う。
何より人の命を重んじるものであり、
誰の命も脅かしてはいけないし
一方的な非難や中傷、執着は許される
ものではないと思っている。


数年ではあるが読む側としてブログの世界を知った私が感じたことを記したい。
自分のまとまらない思いを文にしてみようと思う。


昔から一種の派閥みたいなものや

個人個人の対立はあったのだろう。

個人の対立から集団の争いになることも。

個人の対立にかこつけて個人的な恨みを

晴らすがごとく片方の味方をして攻撃する。

もしくは正義感や友達を守るために元々

自分とは関係ない人に絡んでいく。

ブログの中で何回か目にしたことのある

風景だ。まさしく文字は諸刃の剣であり、

毒にも薬にもなる。


対立していくうちに、そもそもの原因が

何であったのかは大した問題では

なくなるのだろうか?

なぜ個人の相手をそんなに攻撃するように

なったのか、何がそんなに気に入らないのかきっかけは必ずあるはずなのに、

それが置き去りにされて対立だけが

表面化して見えることがある。

もちろんブログ上のこと、全てを

明らかにしていないことの方が多いだろう。


傍観している人からすれば

見えていることだけが全てであり

一見言葉使いが荒い方茶化した文体の方が

悪のように見えることが多いだろう。

お互いが同じようなレベルでやりあって

きたならお互い様とも思うし、

架空ともいえる世界でそこに表れている

言葉の表情から色々なことを

読み取ろうとする。

初めはブログで人と対立することに純粋な

驚きもあった。


個人のブログなのだから何を書いてもいい、嫌なのであれば見なければいい、

という意見。一理あると思う。

一方でブログとはいえ様々な人に見られる

ものなのだから、個人情報はもちろん発信

することに配慮はするべきという考え。

それも当然といえば当然の考えである。


争いはどこから生まれてしまうのか。

俗な言い方をすれば人間観察人間模様、

心理的な動きに興味がいく傾向にある自分からすれば、ブログのなかでの対立というものはとても興味深いものだった。

どちらの言うことが本当なのだろうか、

どちらの言うことが理にかなっているのだろうかと関わっていそうなブログを次々に読んでいく。

そして自分なりの考察を重ねることを

ある意味楽しんでいる部分もあった。


放っておけばよい読まなければよいというのはその通りであると思うが目に留まってしまうこともある。視野を広げたり色んな考えを知ろうと読んでいる人もいるだろう。

目に留まった記事により何かを感じ

傷ついたり憤ったり感動したり励ましたり、何かを言わずにはいられなくなる人もいる。

私も実際、数年のうちに何度もいいねや

コメントを書き込んでみようかなと思った

ことがある。


例え気になっても腹が立っても無視すれば

いいのに絡む方が悪いと言われればそれが

一番正論なのかもしれない。

しかし

そうはわかっていても読んでいるうちに

違和感が出てくることがある。


私が違和感を感じるのは個人の意見の部分ではないことが多い。

個人の多様性、色んな意見はあって当然と

思っているので、個人の主張に対しては

例え自分と違ってもこの人はそういう風に

考えるのだなと理解しようとする。


色々な人の記事を読む中で、

そんなふうに書くから言われるのでは…

とか、反対に、そこに引っ掛からなくても…と思うこともあったが、

それは余計なお世話であろう。

それでも読んでしまう知りたくなってしまうのは人間全般への興味であるのか野次馬的な興味であるのか。


違和感を感じたのは、対立となった

直接の原因ではないところでのことだ。

そのやり方に対して気持ちが一方に傾くことがあった。一見被害者に見えている方に

ある種の「煽り」や「狙い」があるのでは

ないかと感じたのだ。

 卵が先か鶏が先かとよく言われるが

言われる方は何を言われても反応しないこと、言う方はなぜそれがそんなに気に入らないのかを自分自身に問いかけ、

言葉を投げ掛けた先の先まで思いを馳せる。

そうすれば争いは起きようもないと思うのだがそうはいかないのが人間であるのか。

 本人が無視していてもその人を守ろうとする人が現れる。面白おかしく騒ぎ立てる人が出てくる。そして結果的に周囲を巻き込んだ対立になっていくのか。

最初は誰かを守ろうと立ち上がった人が

いつしかアンチと呼ばれる側になることもあるだろう。


人間は一度自分のなかに感じた違和感を

なかなか拭えるものではないし、逆に多少の行き過ぎを感じたからといって一度親しくなった人のことをすぐに嫌いになれるわけではない。ブログでの出会いやまだ付き合いが

浅い場合、親しさの距離がつかめずちょっと違うと思う部分があっても十分なことが言えずオブラートに包んでしまうということはあるのではないか。

現実の世界でも100%全てわかり合えるというのは奇跡に近いことだ。

大人になればなるほど柵も増える。

接し方ひとつ言葉ひとつでプラスにもマイナスにもなる。同じ意味でも言葉遣いや抑揚によっても伝わり方が違うものだ。

であるからこそ文字の世界では【伝える】ことの難しさが際立つ。

現実の世界以上に言葉はよりいっそう毒にも薬もなり、剣にも鎧にもなる。



そのようなことが対立する両方に

それぞれ起こっているのだと思う。

元々繋がりがある人はもちろんのこと、

傍観者にもそれぞれの心情や正義や悪が

あり、どちらかに思い入れが出てくる。


言われても書き続ける人は強いのか弱いのか、それに味方する人追随する人は

正義なのか悪なのか。

言う人にもその人なりの正義があるだろう。何も知らない人が決めつけることはできないし傍観者は結局、ただ見ているだけ、

もしくは自分の感じたことや心に響いた方に振れていくだけだ。或いは時とともに見方が変わり違った印象になっていくこともあるだろう。

文章からその人となりが垣間見えることが

ある。好ましいか好ましくないか、

自分に合う人かなど、直感のほとんどは

間違っていないと思う。

しかしそれは自分の主観混じりの判断で

あることを忘れてはならないとも思う。


見なければいい関わらなければいい、

それが一番平和なようにも思う。

例え正義感からであっても人間の主義主張を変えることは容易なことではないと思うからだ。しかし人間とは自分の思いを伝えたいと思う生き物でもあるのだろう。

今の私がそうであるように。


自分が発したことが招く結果を、

人はどこまで想像しているのだろう。

ネットであるからこその良さとともに、

難しさや残虐さも絶対に忘れてはならない。

強い言葉でなくても、人を傷つけることもあるのだということも。



一見派手なように見える攻撃と

そうは見えない攻撃があるように思う。

問題の芯を隠すようにして水面下で

見えない攻撃をしかける第三者の存在。

どちらにも言いぶんがあり

その主張に同感する人がいる。しかし、

面白おかしく煽ること。

解決のためではなく裏で操ろうとすること。

思い込みで人を攻撃すること。

このことに対して非常に違和感を感じる。


どちらかに心情的に傾き、だからこそ

このままいけばどうなってしまうのか、

その人自身が傷つく日が来るのではないか

と心配になったことがある。

その人自身の思いを知りそこに至る経緯が

見えてくるとよりいっそうそう思う。

(色々な情報が手に入る立場にはない。

全くの無関係ではないかなと思っているが

それも自分で思っているだけで、

自分の意思で自分の思いを書いている。)


他者に漏らす人に罪はないのであろうか。

限定された場所で自分のことが書かれていると明らかにわかっている場合、気分のいいものではないだろう。

しかし実際に目にしなければ、知らなければなんとかスルーし交わらないようにできたものが、リーク者の存在によって掻き回されることもあるのではないか。

自分で気になって、入り込んでしまうこともあるのかもしれない。限定が読める人を

承認するというのは、大変なことなのだろう。


本当に信頼できる人だけで作られる限定記事

で、決して他者に漏れないように話すことの自由があっても良いと思う。

私自身の考えとして、人を貶めるためでなく

しんどいこと辛いことがあったときに

また頑張ろうと思えるために、

信頼できる人と愚痴や思いを語る場がある

べきだと思うからだ。

現実に私自身そうしているし、

そんな時は口が悪くなることもある。

(しかしそこにも最低限の節度は必要

とは思う)

だからこそ、限定記事が読めるという

ある種の信頼を裏切るようなことをすることは絶対にしてはならないと思う。



実際にどんなに書かれても叩かれても

取り合わず自分の世界を作り上げている人もたくさんいる。


どちらが良いどちらが悪いの判断や、どちらに心情を寄せるかはそれぞれが持つ善悪の

観念やこれまで生きてきた環境や人間関係

から生まれ、そこからさらに読者のままでいるのか自らその渦に飛び込んでいくのか、

それもその人の主観により決められていくのだろう。


ブログという本当のことは本人にしか

わからない世界で血の通った交流をするというのは難しいことなのであろうか。


いじめられる方にも非があるという考えは

私にはないが、どんなに平和に書いていても誰かの目に留まる以上思いもかけない反応をされることもあるということは心しておかないといけないのかもしれない。

今の時代に必要なのは、悲しいことだが

もしそのようなことがあった時に自分自身をどう保つかということになってくるのであろうか。


優しい気持ちで関わった人や自らを振り返り勇気を出した人が傷つかないでほしかったと思う。


自分が発信したもので誰かが傷ついていた

ことを知ったら、そんなつもりはなかったとしてもその事実から目をそらさず誠実に

対処し、その上で改めて主張したいことが

あるならする。

他者から見た自分を冷静に見つめてみる。

 逆に言いたいことがあるときも自分の主張の軸をぶらさず最低限の節度を持っていたい。

何かを発信する以上、どちらの立場にもなりうるということを忘れないでいたい。


考えの違う人と遭遇したときこそ

言葉の持つ重みを忘れてはならないと思う。関わらない、交わらないということも含めて、柔軟性も必要になってくるのだろう。



たくさんの要素が絡み合っているであろう

出来事に、自分が感じたことを

何度も何度も書き直しそれでもまとまらないままだ。

実際に書いてみると、短い言葉でわかりやすく文字に表せる人を心から尊敬する。



もし読んでくださった方がいたとしたら、

慣れていなく、何度も修正して行間もおかしく、読みにくい文章を読んでいただき感謝致します。