アキクサインコのちゅらを亡くしたのは、今年の4月でした。
雛で迎え、一人餌になった後も、まともに飛べなかったちゅら。
生後6か月に重篤な感染症に罹り、それから1年7か月頑張ったちゅら。
もし、病気になる前に戻れたら・・・今の私なら防げるのか?
もし、当家に来なければ長生きできたのか?
いまだに思うとともに、
ちゅらは何を思って、何を感じで、生きていたのか?
手乗りの鳥と暮らすってどういうことだろう。
可愛い仕草に癒される、鳴き声に癒される、スキンシップに癒される。
癒されるってよく言うじゃないですか。
私もたまに使います・・・でも、本当はあまり使いたくない。
だってね、一方通行の表現だから。
例えば、美しい花に癒されると一緒の表現。
家族に癒されたって言い方をしませんよね。
家族間は、対話があって意見もあって、双方の思いのやり取りがあるからかな?
家族は癒される対象というより、協力したり、守ったり、守られたり・・・・の関係というか、まさに家族だから。
もちろん、子供の寝顔に癒されることはあるのだろうけど、それは子供が寝ているから。
鳥のことを家族と呼ぶのも本当は好きじゃない、使ってはいるけど。
鳥は大切だけど、感情的なことを除けば、鳥と両方向の関係を築くことは難しい。
鳥が怒ったり、喜んだり、そんな感情は察知できるけど、言葉は理解できないし、
本当の望みは分からない。鳥が家事や仕事をする訳でもない。
だからと言って、鳥が家族に劣る訳ではありません、私にとって鳥は家族と同等以上です。
鳥と暮らすってどういうことだろう?
癒されるのは悪いことではない。
事実なのだから。
でも、鳥は癒されているのかな?
そんなことをよく思うのです。
カキカキする。
放鳥時間を長くして自由に遊ばせる。
栄養バランスのとれた餌を用意する。
仲間を迎える。
一緒に過ごす。
皆さんは、鳥の為にいろいろなことを考えていると思います。
アキクサインコって人間と少しだけ、距離を置くのです。
人間と距離を置くことでチャチャたちが癒されるのなら10kmくらい距離があってもいいのです。
なんなら荒鳥になってもいいのです。
その代わり、飼い鳥であっても鳥たちが楽しく自由に暮らせるなら。
まあね、所詮はきれいごとなのは分かっています。
傍から見れば、ん!?と思ってしまう記事もあるかもしれません。
でもね、鳥と暮らすということを、日々、自分なりに考えていたりもします。
そうそう、鳥たちは私にとって、家族でもペットでもなく、生きた宝物なのです。
儚く、美しく、注意深く見ていないと無くなってしまう。
だから、もう大変、機嫌は良いか、羽並みは良いか、糞は綺麗か
少しの変化も見逃さず、見続けなければならないのです。
一瞬、油断しただけで鳥は消えてしまうのです。
TVを見る時も、ご飯を食べる時も、寝る時も、当家は鳥と一緒。
(1.5m以内に居ます)
変態と呼ばれても良いのです ^_^
鳥は大切。
ちゅらを迎えた時に、こういう覚悟をあれば、違う結果になったのかな?