鳥羽市観光協会だより

鳥羽市観光協会だより

三重県鳥羽市の鳥羽市観光協会スタッフがおとどどけする、最新のイベント情報や、鳥羽の旬の情報を提供するブログです。

幸吉と万博

 

 万博というイベントがある。万国博覧会。何年かに一度、世界のどこかで開催されている。ふだんはあまり気にしないが、日本開催のときは皆盛り上がる。

 御木本幸吉が万博に初めて出品したのは1893年(明治26年)のシカゴ万博のときである。アコヤ貝の標本と天然真珠を出品している。万博に出すほどのものかとも思われるが、当時、真珠の母貝となる天然のアコヤ貝が乱獲により減少しているところ、まず、アコヤ貝の増殖に成功したことを世に示したかったのだろうと思う。このときまだ、養殖真珠には成功していない。幸吉35歳。

 1893年といえば、第二次伊藤博文内閣総理大臣のころである。日本の近代化と海外貿易の柱とも言うべき官営の富岡製糸場が三井に払い下げられた。国力を増大化させるために、民間という新たな勢力を国家が認め始め、活用し始めたころかもしれない。翌年の明治27年には、明治維新と共に産声を上げた日本という小さな国家が清という大国に戦いを挑み勝ってしまう、そんな勢いのある時代だった。民間も国家もイケイケムードが漂うなか、伊勢神宮近くの鳥羽という町で御木本幸吉という男は海外においても高値で取引される「真珠」という新たな産物の研究と養殖にいそしんでいた。1893年シカゴで万博が開催されると聞き、世界という舞台で、まだ形にならない気持ちを示してみたいと思ったのか。とにかく、日本は真珠の国であり、日本にミキモトという男がおり、そのうち皆さんを驚かせてみせますよという彼なりの宣戦布告であったのか。

 しかし、これがまた、なんということか、1893年、シカゴ万博が始まった5月1日から約2か月後、彼は、世界で初めて真珠の養殖に成功した男として歴史に名を刻む。この奇妙な偶然は何だろう。いや、計算されていたのか、仕込んであったのか、いや、それとも、伊勢神宮の風がいたずらをしただけなのか。歴史上では1893年7月11日に世界で初めて御木本幸吉が養殖真珠に成功したとなっている。いずれにせよ、この年、つまり、1893年は真珠養殖という産業がこの世に生まれた年でもあるが、幸吉という鳥羽のうどん屋の息子が初めて世界に名乗り出した年でもある。発明したものを次のステップとして、世界市場に展開していこうとするのは理解できるが、発明前から世界を視野に入れていたところが彼らしい。このあと彼は「万博男」と呼ばれるほど、ありとあらゆる万博に出品することになる。彼の万博への情熱は果てしない。以下はミキモト真珠島の幸吉記念館の展示による。

明治26年(1893年)シカゴ万国博覧会(アメリカ)

明治31年(1898年)ノルウェー万国水産博覧会(ノルウェー)

明治33年(1900年)パリ万国博覧会(フランス)

明治35年(1902年)ロシア万国博覧会(ロシア)

明治37年(1904年)セントルイス万国博覧会(アメリカ)

明治38年(1905年)リエージュ万国博覧会(ベルギー)

明治38年(1905年)ポートランド万国博覧会(アメリカ)

明治39年(1906年)ミラノ万国博覧会(イタリア)

明治41年(1908年)ロシア装飾美術工芸博覧会(ロシア)

明治42年(1909年)アラスカユーコン太平洋博覧会(アメリカ)

明治43年(1910年)日英博覧会(イギリス)

明治43年(1910年)ブリュッセル万国博覧会(ベルギー)

明治43年(1910年)チリ万国博覧会(チリ)

明治44年(1911年)美術産業博覧会(イタリア)

大正  4年(1915年)パナマ太平洋万国博覧会(アメリカ)

大正11年(1922年)ブラジル万国博覧会(ブラジル)

大正14年(1925年)パリ万国美術工芸大博覧会(フランス)

大正15年(1926年)フィラデルフィア万国博覧会(アメリカ)

昭和  8年(1933年)シカゴ万国博覧会(アメリカ)

昭和12年(1937年)パリ万国博覧会(フランス)

昭和14年(1939年)ニューヨーク万国博覧会(アメリカ)

 

 こう見てみると日本や世界が戦時であったとしても、万博には参加しており、国家も企業も、もちろん幸吉も積極的にかかわっている。彼の万博への情熱の原動力とはいったい何だったのか。昭和14年(1939年)のニューヨーク万博に彼が出品したものを見ると、彼の万博への思いが伝わってくる。

 アメリカの歴史において最も重要な出来事の一つである独立宣言の朗読。その時に打ち鳴らされたという『自由の鐘』。フィラデルフィアの独立記念館に展示されており、その精神を今に伝えている。刻印は「全地上と住む者全てに自由を宣言せよ」とある。アメリカ人にとっては誰もが知る『自由』と『解放』の象徴である。彼は世界中に暗雲立ち込める1939年という時代にニューヨークで開催される万博への出品に『自由の鐘』を選ぶ。

 

 

これこそが彼を『万博男』と謂わしめる真の理由かもしれない。

5月にノモンハン事件が起こり、日ソが対立。9月にはナチスがポーランドへ侵攻し、第二次世界大戦がはじまった。

そんな中11月にニューヨーク万博は開催された。2年後、彼の願いもむなしく、日米は戦争に突入する。

 

 彼は円い真珠を見つめながらどんな思いを抱いたのだろう。

 

そして、現在の世界を見て何を思うのだろう。

 

 御木本真珠島に今も展示されている「自由の鐘」を見ながら、幸吉が万博にかけた思いと平和への願いを世界中の人と共有したい。

答えは『海女』のなかにある。

 

海に潜って貝を採る・・・。

人類がおそらく最初に行ったであろう食料採取。

 

最古の文献としては、3世紀ごろ書かれた中国の『魏志倭人伝』。魏志倭人伝とは日本史で習った「邪馬台国」に卑弥呼がいたという記載がされている文献である。そのなかに、倭人が海に潜りアワビを採るという紹介がなされている。

 

伊勢志摩地方の海女が出てくる書物としては万葉集が最古のもの。「伊勢の海女の朝な夕なに潜(かず)くといふ 鮑の貝の片思いにして」

 

鳥羽市の白浜遺跡からは大量のアワビの殻といっしょに、鹿の角で作られたアワビオコシと呼ばれる骨格器が出土されている。今から約2000年前の遺跡だと言われている。

 

鳥羽の人は、何千年も昔から、素潜りで、アワビやサザエを採ってきた。そして、これだけ文明の発達した現代においても、変わらず、その漁法にこだわっている。

 

なぜ、海女という職業に女性が多いのかは諸説ある。女性は皮下脂肪が厚く寒さに強いとか、漁法の発展により、男性はより遠く、より深いところで、効率の良い獲物を求めていったためとかがよく言われる。

 

三好達治の詩『郷愁』にこういう一節がある。
『海よ、僕らの使う文字では、お前の中に母がいる。そして母よ、仏蘭西人の言葉では、あなたの中に海がある』
これは日本語の『海』という漢字の中に『母』という文字が含まれており、フランス語で『母』を意味する『mere』(メール)の中に『海』を意味する『mer』(メール)が含まれていることを示している。当然、フランス語で『海』は女性名詞で『ラ・メール』と言う。

さらに日本語では、『海』は『産み』から来ている。海は全ての生命の源、そういう意味で、世界中の言葉で『海』と『母』は似た表現になるのかも知れない。海女が女性なのも何か関係があるかもしれない。

 

現代社会が直面している数ある課題に対して、我々現代人は海女から多くのことを学ぶべきである。多くの示唆を含み、解決の糸口が見つかるかもしれない。

『海女』の中にその答えが存在する。

 

「日本一海女の多いまち 鳥羽市」として世界中に、このメッセージを贈ります。

 

 

1、持続可能な社会

素もぐりであること。この原始的な漁法をいまだ続けている。自分たちの体力への配慮は自然界への配慮と重なっている。獲っていい時期、獲っていい種、獲っていい日、獲っていい大きさ、各地区の漁協がすべて決定している。このことでも乱獲を防いでいる。常日頃から海に潜っている海女は微妙な海底の変化にも気が付き、『海の自然保護官』の役割も果たしている。伊勢志摩の海が豊かなのも、海女という存在が大きく機能しているからに他ならない。このような偶然とも、必然ともとれる仕組みの中で、自然との共存、資源の保護により、持続可能な社会を実現させている。

  

 

2、世代を超えた女性のコミュニティ

海女小屋は海女が漁の前後で体を温め、休憩をするところ。数名のグループで使用し、情報交換の場として機能している。漁のコツ、地域でのルール、子育てのことについて相談できるしくみが存在する。新しく村に入ってきた女性も、年齢を超えたつながりを得ることで、女性の居場所づくりにもつながり、地域の共同体としての意識がこの海女小屋で形成され、受け継がれている。

 

 

3、複業という考え方

海女は毎日、海女漁をしているわけではない。しかも、季節によって、ヒジキ、ワカメ、アラメ、テングサなど。ナマコを獲る地区もある。子育てもしながら、田んぼも作り、畑も耕し、民宿でも働き、海女は働き者である。『副業』という考え方から、『複業』という考え方へ。女性の生き方に対して、一つの提案がそこには存在するのかもしれない。そういう意味では『海女』とは職業のことではなく、『生き方』のことであるとも言える。女性の働き方として、現代に多くの示唆を与えている。

 

 

最後に、海女はとにかく、明るい。そして、よく笑う。海女小屋では、獲物が獲れても、獲れなくても、常に笑い声が絶えない。危険な作業であるにも関わらず、海女には、苦労を笑い飛ばしてしまう力がある。それぞれの家庭に戻れば、悩みも、困りごとも千差万別であろう。しかし、海女はよく笑う。海女が『海』という大いなる力から学んだ知恵なのか。世界中が今、海女から学ぶべき最大の教訓はそんなことかもしれない。

 

(よしたかざくら)
 
1600年 関ヶ原の戦いで、西軍につき、敗れた水軍の将 九鬼嘉隆。鳥羽城は彼が築城した海城だ。

 彼は鳥羽湾の沖合に浮かぶ答志島最期をむかえることになる。東軍についた子の守隆は家康に、父の助命を嘆願し、その許しを持ち帰る前に嘉隆は自刃を決断した。「自分の首は鳥羽城の見えるところに埋めてくれ」という遺言を残し、答志島の洞仙庵で自らの命を絶った。遺言どおり、答志島でも随一の眺望を誇る築上山(つかげやま)に嘉隆の首は埋葬され、長きにわたり鳥羽城を眺め続けることとなった。

 

 

 時は移ろい、鳥羽の浮城と呼ばれたその姿も明治維新とともに潰えてしまった。鳥羽城跡の鳥羽湾を一望できる広場に、ひときわ、枝ぶりのいい桜が一本ある。桜のごとく散った嘉隆も、毎年、春には、答志島から鳥羽湾を隔て、この桜を眺めていることだろう。青い海を臨むように咲き誇るその雄姿は、往時の嘉隆を偲ばせ、いつのころからか、人はこの桜を嘉隆桜と呼ぶようになった。

 

 ここから、遥か海のかなたを目指し出陣していった九鬼水軍。

嘉隆は海の向こうに一体何を描いていたのだろう。

鳥羽湾には今日もかもめが飛び交う。


 

ついに伊勢志摩サミットが始まりました。さすがにこの週は観光客の方より警備の方が目につきますね!(服装の影響とかもあるだろうけど)

無事何事もなく、終えて貰いたいですね。
テレビでは、サミット特集などで、特にここ煤実はかなり鳥羽、志摩、伊勢の特集がされております。テレビで鳥羽に興味を持たれた方は、是非遊びに来て下さい。

そして、お越しの際には、鳥羽市へ「ふるさと納税」をして頂くととてもお得に旅行することができますので、是非ご検討下さい(^_^) 「感謝優待券」はお宿に飲食にお土産に観光に、沢山使えます!






わかめ1 わかめ3

答志島の桃取(ももとり)という町では

今、ワカメの最盛期を迎えている。

ワカメ干しのお手伝いに行ってきた。


この日は、天気もよく、色とりどりのヤッケを着た

漁師たちのワカメ収穫船が青い海に映えている。

兄弟船、夫婦船、親子船、従兄弟船。


1隻1隻それぞれの人生を載せた船が黙々と作業をしている。

海面に浮かぶロープにワカメがびっしり。


1株1株海中に落としてしまわないように、専用ナイフで切り取ってゆく。


ワカメを収獲してきたら、陸に上がり、メカブの部分を切り落とす。

切り落とされたメカブはこれでまたまた、商品として、後ほど袋詰めされる。


ワカメの部分は、そのまますぐ、天日で乾かす。


一本一本、 茎の部分を釘にひっかけていく。

茎の部分は非常にデリケートなので、慎重な作業だ。


次の人が、垂れ下がったワカメの汚れをなどを、確認しながら、

となりどうしくっつかないように、折れ曲がらないように、

一枚一枚ていねいに、広げながら、伸ばしならがら乾かす。


ここまで、教えてくれているおじさんや、おばさんはあまり、多くは話さない。

方言もあるので、7割ぐらいの理解で作業している。

作業としては単純なので、十分お手伝いはできていると思う。


ここで、休憩となった。

お茶とお菓子を食べながら、少しづつ、話がやっと出だした。


我々にも、自分の身の上話や、ワカメのこと、

海のこと、島のこと、小さかったころの思い出などを話し出した。


ゆっくりだが、考えながら。

我々に言っているのか、自分に言い聞かせているのか。

一言一言、かみしめるように。


あるおばさんが、自分の娘のことを話している途中で、

何かがこみ上げてきたようで、急に涙をこぼし、言葉を詰まらせた。


いつもの見慣れた仲間といるいつもの見慣れた作業場に、

今日は見ず知らずの我々が入り込み、旅人である我々になら、

素直に愚痴をこぼしても、気を使うことはないと思ったのだろう。

話している途中で、思わず感情がこみ上げてきたのだろう。


田舎だから、島で暮らすから、毎日顔を合わすから、

仲間だから、実は言えないこともある。

おばさんは、旅人である我々にこそ、一瞬、気を許し、本音が出たのだろう。


休憩後はそろそろ半分くらい乾いてきたワカメを乾燥室に運ぶ作業。

たくさんワカメがぶら下がった木を

これまた、

1本1本慎重に運ぶ。


地面につけたり、落としたり、途中で切れないよう細心の注意を払う。

完全に乾燥されたワカメは我々がよく目にするパリパリの乾燥ワカメになっていた。

それを

1束1束 ていねいにからげていく。


おじさんは、ガラスを扱うような気持ちでいると言っていた。

割れたりすると商品価値がぐっと落ちるからだ。


このへんで、定期船の時間が迫っているので、我々の、今日のお手伝いは終わり。


今日、気づいたことがある。

これはお手伝いではなく、

ましてや、ワカメ干し作業の体験でもない。


ワカメを通じた、すばらしい出会いの場であったということ。

島で暮らす人々の人生にもほんの少し、触れられたような気がする。


去るとき、足手まといであったはずの我々にほんとに感謝してくれ、

また、来てくださいと何度も言ってくれた。




わかめ2


この時期、島のあちこちで、目にする

ワカメのカーテン。




カーテンの向こう側には春が見える。





鳥羽市観光協会。
























4月2日(土)、「第5回 しろやま嘉隆まつり」が開催されます。鳥羽城跡、しろやま公園にて花見・芸能・食を楽しむイベントです。当日は武者行列、鉄砲隊のオープニングに始まり、太鼓の演奏などのステージイベントで会場を盛り上げます。九鬼水軍汁ややまとたちばな茶、嘉隆ぜんざいのふるまいも行います。子ども狂言や子ども甲冑隊などもあり、お子様連れの方も是非、ご来場ください!



日 程:2016年4月2日(土)
時 間:12時30分~16時00分
場 所:城山公園会場
問合せ:しろやまフェスタ実行委員会
(鳥羽商工会議所 TEL 0599-25-2751/鳥羽市観光協会 TEL 0599-25-3019)

【イベント内容】
12:30~出陣式
12:45~武者行列
13:10~松本城 大筒の迫力演武
13:45~子ども狂言
14:15~大ホラ吹き大会
14:45~鳥羽太鼓連

思い返せば、新入りが鳥羽市観光協会に入社して、右も左も分からぬまますぐにとりかかったのがこの嘉隆まつりでした。あれからもうすぐ1年。1年目とは思えないぐらいいろんなことを経験させて頂いた気がします!引き続きよろしくお願い致します。と、めちゃめちゃ間隔空いたけど、しれっと投稿してみる。あっという間にサミットもあと60数日です!




プルル、プルル♩

協会内に1本の電話が鳴った。

「はい、鳥羽市観光協会です。


・・はい、え?

・・神島で?

やりましょ船?」


・・・私、観光協会職員であるにもかかわらず、恥ずかしながらこのやりましょ船のことをご存知ありませんでした。

何のこっちゃと調べてみると、毎年12月8日に鳥羽市の離島、神島で行われている行事らしくカヤで作った船(やりましょ船)に島民達がカヤとお米と賽銭を入れて1年の災いを海に流すという伝統的な神事らしい。


・・・実に面白そうだ。

となると、このやりましょ船が気になって気になって、いてもたってもいられず神島に出向いた訳でございます。

てな訳で、上司のお許しを得、鳥羽佐田浜港14時発の神島行きに乗船。

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半船酔い気味で無事、神島に到着。

すでに神島のメインストリート⁇には数人のおばあちゃんが手にカヤを持って待ち構えている

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何故やりましょ船と呼ぶのですかと聞いてみると、「出雲の国へ神様をやりましょ」という意味らしい。

満を侍して午後3時過ぎ、袴姿の隠居衆や若い衆2人がやりましょ船を担いで登場。

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パシャり! 決まってます!


やりましょ船が通る道には島民たちがズラリ。人々は何やら“追いやれ、追いやれ”と発しながらカヤをやりましょ船に入れていく。




【百聞は一見にしかず、動画をどうぞ】

そしてカヤで一杯になったやりましょ船は漁港近くの海岸から漁船に乗せられ、海(出雲)に送り出されて行ったのである。

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こうしてやりましょ船は終わりを告げ、島民は新年の「ゲーター祭」への準備に取り掛かっていくのである。

帰りの船の中で、この行事を心から楽しんでいた子供たちの表情、若い衆の活気溢れる威勢の良さ、おばあちゃんの包み込むような優しい笑顔、島の伝統を後世に残していこうとする隠居衆の力強い眼差しが、この神島が人々に愛されて止まない理由なのだと私は思えた。






年末に差し掛かり、ふるさと納税の話題がたくさん取り上げられていますね。鳥羽市もおかげさまで、1億円の大台を突破し、新聞に取り上げられました。

今後、この頂いたご寄付をどのようにまちづくりに活用していくかが大切だと思いますので、観光協会で公表できることは、どんどんご報告をしていきたいと思います。今年度ご寄付を頂けた方も、来年ご検討されている方も、是非鳥羽市にふるさと納税を頂けますようお願い致します。



なお、今年度の返礼品の発送状況ですが、鳥羽市サイト、特設サイト、本ブログでもご報告させて頂きました通り、B-2旬の海産物(伊勢海老)につきましては、申込書でのお申込みにつきましてはすでに年内発送を締め切らせて頂いております。年明け発送となりますので、今暫くお待ち下さい。

また、ふるさとチョイス等のお申込み(クレジット決済)につきましては、本日が年内発送の締め切り最終日となりますので、よろしくお願い致します。

鳥羽市ふるさと納税の年末年始の取り扱いについてご連絡です。


※年末年始の取り扱いについて※

①お問い合わせ

12月26日~1月3日の間は、鳥羽市観光協会が休みを頂きますのでメールやお電話でのお問い合わせに対応することができません。
年末のお問い合わせは12月25日(金)17時までにお願い致します。


②寄附金受領証明書の発行

頂きました寄附金にかかる証明書は次の日付で発行させていただきます。

寄附金の納入方法
 ●お申込用紙でのお申込み、金融機関等からのお振込み(現金書留・窓口納付)
  ⇒ 証明書発行日:入金をしていただいた日の日付 (鳥羽市が受付けた日の日付)
 ●インターネットからのお申込み(クレジットカード決済)
  ⇒ 証明書発行日:クレジットカード決済を行っていただいた日の日付


③お申込用紙でのお申込み

お申込みは随時受け付けておりますが、お申込用紙でのお申込みにつきましては、次の通り取り扱わせていただきます。
 ■金融機関等からのお振込み
  12月25日正午までに鳥羽市観光協会へ届いたお申込用紙はゆうちょ銀行からお振込みいただける払込取扱票を年内に発送いたします。
  12月25日の正午を過ぎてから届いたお申込用紙は1月4日以降に払込取扱票を送付いたしますのでご了承ください。
 ■現金書留(窓口現金)
  12月25日17時15分にまでに鳥羽市企画財政課へ届いたものを年内最終の受付といたします。


④B-2伊勢海老をご希望の方へ

年内発送分の伊勢海老の受付は次の日付で締め切らせていただきます。
締切以降のお申込み、お振込みにつきましては1月4日以降のお届けとなりますのでご了承ください。

寄附金の納入方法
 ●お申込用紙でのお申込み、金融機関等からのお振込み(現金書留・窓口納付)
  ⇒ 年内発送分の伊勢海老の受付について:12月9日入金分 (12月9日鳥羽市受付分)
 ●インターネットからのお申込み(クレジットカード決済)
  ⇒ 年内発送分の伊勢海老の受付について:12月11日クレジットカード決済分


【お申込みは年末年始も随時受け付けております。】

引き続き、是非鳥羽市へご寄付頂き、特産品をお選び頂ければと思います。

ふるさと納税特設サイトはこちら。