今朝、私は自堕落な自分の味方につこうと、自分を労っていた。
自堕落はダメとか思っている自分に気づいたので。

そしてちょうどその時考えてたことと似たようなことを、ピースさんが書いていた。

欲望の正体

ピースさんは、『過剰な欲望』という言い方をしていた。

私は、「ねじれたり歪んでしまった欲求」と考えていた。

今朝の「自堕落」な自分で言えば、その本質的な欲求は、言い方を変えればリラックスしたいっていうことであって、これはつまり自分の本質(魂)に帰りたいという欲求だと私は気づいた。

そんな自然で最もな欲求が、疲れていたりストレスや精神的な傷で歪んでしまい、自堕落っていう過剰な側面がでてくるのだと思う。

だから、例えば「自堕落でいたい「という欲求そのものを否定することはないと思う。
それは魂に帰りたいという本質的に自然な欲求から派生したものだから。

その強い欲求は、おそらく決してなくならず、自分という魂に繋がる強力な原動力となる。

ピースさんのいう「過剰な」部分、私が考えていた「ねじれたり歪んだ」部分をほぐしてやれば、それはそのまま魂と繋がる強い力となるのだ。


私の場合だと、今朝の私は、何があっても自分の味方でいようと思った。

例え自堕落が罰せられることになっても、自堕落な自分の味方でいようと思った。

すると、みぞおちのあたりが緩んでいくのを感じた。ねじれ、歪みがほぐれたのだろう。

その後、あぁ、私がずっと求めてきたものは、自分の魂そのもの(自分という愛)だったんだと気づいた。

そして、私の魂は受容的で女性性の側面なので、魂をまっすぐ好きになることは、内なる異性の統合ということにもなるようだ。

その自分という魂の愛を受け入れたとき、心の底から納得したような満足感があり、生まれて初めて、私は「あぁ、自分は完全なんだ」と感じた。

そして今、改めて魂を好きな気持ちを抱くと、そこには歓喜の気持ちが湧いている。

本当に求めていたものは外にはなく、よく言われているとおり、自分の内にあった。

その力はとても確固としたもので、まるで金剛の光の柱のように感じた。

…魂は力強さを求めていたようだけど。

……あんた力強いじゃないか。