私には、根強い人間不信があります。

深い領域のもののようです。

普段は、マナーというか、礼儀というか、そんなので習慣的に取り繕えてしまっているから、自分でも気づかないときが多い。

人間不信が嫌だと思ってきたから癒そうと思っても、なかなか思うようにできませんでした…その不信に意識をあてることができないから(気づいていられないから)。




最近、会社で、別の部署の人と言い争いになった。

私はその人に、
「ルール上、それは無理でしょう。」
と言った。ルールを押しつけるのは嫌いなはずだったけど。

その人は、
「そんなこと言ったって!」
と言い争いになった。

でも翌日から、その人は粘り強く諦めず、打開案を次々に持ち出してきた。

私は無理だろうと思っていたし、私だったらすぐに諦めてしまうところを、その人が自分で考えながら粘り強く進めていくやり方に感心していた。

そしてその人は、言い争いになっても特に気にした風もなく、私に接してきた。

私は、誰かと言い争いになってしまうと、それを引きずってしまう。
だから、言い争いを避けようとする。
言い争いになったら、人間関係は終わってしまうかのように。

その原因は、根深い人間不信、精神的な傷にあるように思っている。


でも、その人とのやり取りを通じて、あぁ、言い争ってもいいんだ、言い争っても信頼関係を損なわなくてよいのだと感じて、その実感が、私の深いところの人間不信、傷に光をあててくれたように思う。

間違いなく私の傷は人間関係によるもののはずだけど、その傷は、人間関係によって癒されてきている。


信頼の力強さは、こうして不信を、実感によって乗り越えた先に培われるものなのだろう。その不信が強いほど、乗り越えた先の信頼も、力強くなっているはずだ。

だから、強い不信は苦しいけど、乗り換えた後には、強いほど大きなギフトに変わりますね、確かに…しみじみそう思います。


人によって、抱えている闇は違うだろうし、その強さも異なるだろうけど。

それは、それを乗り越えることで、力強い何かを得ようとしているのだろうと、今回実感しています。

だから、強いネガティヴを抱えている人を可哀想に思ったり、癒してあげようとするのは、必ずしも正しいことではないなと思いました。

その人は、乗り越えた先の力強さをえようとしているのだから。

むしろその人を、乗り越えられると信じたり、応援するのがいいのではないかな、と思いました。

乗り越えるのは、今世とは限らないのだろうけど。

乗り越えた先で力強さを得ているだろうから、それはその人のチャレンジだ。
邪魔するようなことは、したくないな。

人は苦しいとき、その苦しさをとにかくなんとかしてくれ!と思ってしまう。
私自身がそうだし、それは無理ないことだと思う。責められることではない、人として。


でもきっと、それは自分で設定しているものだろうと思う。

だから、頑張れっ!!いつか乗り越えられるぞっと僕は思うよ。


それは、とても苦しいこと。

だけど、同時にとても素晴らしいこと。

魂や神々には、乗り越えた先が見えている。

だけど人には、それが見えていない。

励まされても、「自分には無理」「そんなこと言ったって」とか思ってしまうけど。

それは、人には乗り越えた先が見えていないからだ。

だから、こんなにも苦しいね。

だけど、そんなにも力強くなれるね。





ここからは備忘的に。
6月末に気づいた、第3チャクラのあたりの力強い静寂。なんで第3チャクラなのに静寂?っと思っていたけど。
7月中旬となった今朝、その外側のあたりから、ジワジワと癒しというか慈愛というか、そんな気配を帯びてきた。
例えとしてどうなのか分からないけど…まるで静寂な太陽のように感じる。