私はこれまで、周りを自分が受けいれるか、自分を周りに受けいれさせるか、どっちかしかやってなかったなと思う。

それは、支配か服従かという在り方だ。

調和っていうのは、頭では分かった風に言ってたけど、自分の在り方としては分かっていなかった。

…まぁ究極的には、すべて調和しちゃってるんだろうけど。

だから、『調和とは、相手に合わせるのではなく、一緒に歌うこと。』っていうのに、すごく魅入られた。

一緒に歌うって、自分を殺さず、相手も殺さない。どっちも犠牲にしない。

自分の存在を主張していいっていう意味が含まれていたわけで、そこが嬉しかったんだなと思う。

でも、私と違って調和を体感的に知ってた人には、響かない言葉だ、きっと。

私が『一緒に歌う』に魅入られたのは、そのとき自分に必要な知恵と出会ったからだ。

誰にも、そんな風に自分に必要な知恵に気づく力がある。

自分の内側にある知恵と、外側に見えたものが共鳴するから、なんとなくでもそれだと気づく。それを否定しないことって大切だと思う。

誰も、答えを知っている。
「分かった!(=これだ!)」って思うときがあるのは、もともと答えが分かったいたのが見つかったから、そんな反応になる。

答えが内側になかったら、これだ!って響くことはできないと思う。

だから誰かの意見を鵜呑みにする必要はないから、自分に何が響くか、気をつけていればいいのだろう。


私には、『混ざり合う』が必要だった。

でもそれには、ある程度自分を見失わない強さ、あるいは自分はなくならないという確信めいたものが前提となるだろうから、以前の私では消化できない知恵だった。

将来の私に必要な知恵も、また違う何かだろう。

タイミングによって、自分に必要な知恵も変わる。

自分に必要な知恵、気づきを段階的に見つけていくことが、生きていく意味のひとつなんだろう。

…昨日気がついた『混ざり合った』結果をひとつ付け加えると、

混ざり合ったとき、もう誰とも争う必要がなくなっている。

混ざり合った状態は、周りと溶け合ったひとつの愛の感覚で、愛の力がなんとなくでも分かっている。何もする必要がなさそうだ。

他に何も期待しなくてすむし、それ以上のものはいらないように思われた。