~させられた、踏みにじられた、そんな精神的な傷。

それへの処方は、「自分がやった」という主体的な認識だった。

今日の昼休み。
「すべて自分が創った」と思ってみる。

…ズシっと胸のあたり(魂)に負荷を感じた。

外をただ歩いているだけなのに、ガッシリとした重力に胸が囲まれたような負荷だ。
これはなんだろう?
今まで気がついていなかっただけなのか?

グラウンディングというのか…重力が何倍にもなって、地を這うような重さ(ちなみに家に帰ったら、負荷は消えてた)。

…いまの状況、環境…物質から感情、思考まで、すべて自分がつくった……精神的な傷でさえ、同じこと。
そんな思いで周りを見回す。

見慣れた帰りの電車のなか。

何の変哲もないはずだけど、やがて胸のあたりから、見るものすべてへの、ほのかな愛おしさが湧き出てきた。

自由とは、自分がどんな視点でいるか(例えば、自分がぜんぶつくったという視点)を自由に選べるということのように思った。

自由に選んだ視点の結果として、うまれるエネルギー(今回で言えば、ほのかな愛おしさ)が変わるのだ。
それはつまり、視点によって世界が変わるということ。

どんなエネルギーでいてそれを表現するかで、自分の周りの世界に起こることが変わるのだから。