昨日の昼、歩いているときだった。
ふと、「あー、心を自分(愛)で満たすのは、こうすればいいんだな。」と思った。
それまでは、心を感受性のように捉えていて、何か(感情とか)で満たす容れ物のようには捉えていなかったように思う。
容れ物としてとらえることは、心を客観視することにも繋がるようだ。
そして、ピースさんがブログで公開していた、怒りとかの感情を愛に変換していくプロセス(怒りと自然な強さ )も、そもそも心は容れ物だと思うことで、やりやすくなったような気がする。
怒りを愛に変換することは、とても力強く生きることでもある。
怒りは力強いエネルギーだから、周りへの攻撃に向かわなければよいのだ。
また、心という容れ物を愛で満たし続けるには、日々の心揺さぶる出来事にどう対処するかが問題となる。
その答えは、この間読んだ上橋菜穂子さんの「鹿の王」という本にあった、この一節がひとつの答えのように思う。
『この世に勝ち負けはない。
食われるのであれば、巧く食われればよい。
食われた物が、食った者の身体になるのだから。』
要は、起きた出来事、周りの状況を何とかしようと変えようとせずに、潔くそこに飛び込んでしまえということだと思う。
変えようとしたり避けようとするから、却ってとらわれてしまうわけで、いっそ中に飛び込んでしまえばよいのだ。
どうせ、飛び込んだ先でも自分でいることしかできない。
どこにいっても何をしても、周りがどうあろうと結局は、人は自分でいることしかできない。
ジタバタせずに、あればよい。
私は、私であるのみ。
ふと、「あー、心を自分(愛)で満たすのは、こうすればいいんだな。」と思った。
それまでは、心を感受性のように捉えていて、何か(感情とか)で満たす容れ物のようには捉えていなかったように思う。
容れ物としてとらえることは、心を客観視することにも繋がるようだ。
そして、ピースさんがブログで公開していた、怒りとかの感情を愛に変換していくプロセス(怒りと自然な強さ )も、そもそも心は容れ物だと思うことで、やりやすくなったような気がする。
怒りを愛に変換することは、とても力強く生きることでもある。
怒りは力強いエネルギーだから、周りへの攻撃に向かわなければよいのだ。
また、心という容れ物を愛で満たし続けるには、日々の心揺さぶる出来事にどう対処するかが問題となる。
その答えは、この間読んだ上橋菜穂子さんの「鹿の王」という本にあった、この一節がひとつの答えのように思う。
『この世に勝ち負けはない。
食われるのであれば、巧く食われればよい。
食われた物が、食った者の身体になるのだから。』
要は、起きた出来事、周りの状況を何とかしようと変えようとせずに、潔くそこに飛び込んでしまえということだと思う。
変えようとしたり避けようとするから、却ってとらわれてしまうわけで、いっそ中に飛び込んでしまえばよいのだ。
どうせ、飛び込んだ先でも自分でいることしかできない。
どこにいっても何をしても、周りがどうあろうと結局は、人は自分でいることしかできない。
ジタバタせずに、あればよい。
私は、私であるのみ。