みなさんお久しぶりです。
すっかり新年度で、ご無沙汰してしまいました。
さて、ぼくは普段、あまり映画は見ないのですが、ここ2週間で「シェイプオブウォーター」「グレイテスト・ショーマン」、そして「さよならの朝に約束の花をかざろう」の3本を見ました。
ぼくは映画のプロではないし、まして評論家でもありません。ジャンルもそれぞれ違うけれど、世間からは高評価を受けているといってよいであろう3作品を観て感じたのは、映画や小説、マンガなどのエンターテインメントって難しい!ということ。
感性は人それぞれなのはもちろんでのですが、人がその映画に何を求めているかに応じて評価も異なってくる。
また、「メッセージをもった社会的な映画」に魅力を感じる人もいれば、「とにかく感動して泣きたい」という点に重きをおく人も。「楽しい気分になって帰りたいな」と考えて映画館にいく人もいるでしょう。
「メッセージ性のある映画」=感動でもないし、「感動して泣いた映画」=素晴らしい映画、というわけでもないと思う。じゃあ何が「面白い」映画なのか、と言われたらぼくは困ってしまう。だからぼくは映画を観に行く際、人の評判は気にしない。観たいと思えばいく。
事前に聞く「人からの評価」ほど無意味なものはないからだ。
率直にいうと、「シェイプオブウォーター」は僕の周りでは「考えさせられた」「いい映画」とツイッターで感想を述べている人が多かった。確かにその通りかなと思う。
愛とは何か、おとぎ話のように、映画の主役はイケメンで、ヒロインは美女でなくてはいけないのか。そんな疑問をつきつけた作品であったと思う。
だが「考えさせられる」=いい作品、という図式はぼくの中では成り立たない。正直、シェイプオブウォーターはつまらなかった。サリーホーキンスと不思議な生き物との恋愛は、みていて気持ちのいいものではなかった。不思議な生き物は2時間あれば見慣れるかと思っていたが、思ったより化け物感があり、最後までしんどかった。
そのときふと気付いた。自分にとって劇場とは、考えるところではなく、感動したり、楽しい気分になるところなのだと。
だらだら述べてしまたが、「さよならの朝に約束の花をかざろう」がほんとによかった。
特に最後、綿密に計算され、畳み掛けるように観劇者を泣かせにくるマキアの回想シーン。涙が止まらなかった。
ストーリーは、
人里離れた土地に住み、ヒビオルと呼ばれる布に日々の出来事を織り込みながら静かに暮らすイオルフの民。
10代半ばで外見の成長が止まり数百年の寿命を持つ彼らは、“別れの一族”と呼ばれ、生ける伝説とされていた。
両親のいないイオルフの少女マキアは、仲間に囲まれた穏やかな日々を過ごしながらも、どこかで“ひとりぼっち”を感じていた。
そんな彼らの日々は、一瞬で崩れ去る。イオルフの長寿の血を求め、レナトと呼ばれる古の獣に跨りメザーテ軍が攻め込んできたのだ。
絶望と混乱の中、イオルフ一番の美女レイリアはメザーテに連れさられ、マキアが密かに想いを寄せる少年クリムは行方不明に。
マキアはなんとか逃げ出したが、仲間も帰る場所も失ってしまう……。
虚ろな心で暗い森をさまようマキア。そこで呼び寄せられるように出会ったのは、親を亡くしたばかりの“ひとりぼっち”の赤ん坊だった。
少年へと成長していくエリアル。時が経っても少女のままのマキア。同じ季節に、異なる時の流れ。変化する時代の中で、色合いを変えていく二人の絆――。
ひとりぼっちがひとりぼっちと出会い紡ぎ出される、かけがえのない時間の物語。
公式Webサイトの引用。
凪あすでも思ったのですが、監督のマリーは「同じ時を過ごしているはずなのに、いつのまにか違う道を歩んでいる」ことを描くのが大変うまいなと。今作、マキアとエリアルはお互いに内心では一緒にいたいと思っているのに、ちょっとしたすれ違いから「離れて暮らす」ことを選ぶ。エリアルは15になり、マキアが自分の母親ではないことを自覚している。知っているからこそ、彼にはわからない。
なぜマキアが自分を愛してくれるのか。
なぜマキアが自分を大切に想ってくれるのか。
親は子供に無尽蔵に、無条件に愛を与える。それが「当然」だと思うのは、自分が親になってからなんですよね。きっと。
だから子供は親離れして一人で暮らすようになり、「愛」を探しに行く。
最後、エリアルは衛兵となり、戦争に参加。そのとき色々あってマキアと再会するのですが、そのときのマキアのセリフもまたよい。うろ覚えなのですが
エリアルがいたおかげで「自分」を見つけた
エリアルといたからこそ、「愛」を知ることができた
エリアルとの関係は母子ではないけれど、その関係はなんだって構わない、なんだったらエリアルがその関係に名前をつけたっていい
エリアルはマキアに「行かないで、母さん」と応えます。しかし、エリアルにはすでに子供ができて、すっかり一人で地に足をつけて、人を愛して生きて行くことができる。
マキアはそれに応えることなく去っていきます。
ここで一回号泣。
そして物語の本当に最後、エピローグともいえる場面でマキアは、すっかり年をとり、寝たきりとなったエリアルに会いにいきます。マキアは少女の姿のまま、おじいさんとなってシワだらけのエリアルの手を取り、語りかけます。
ーこんなになるまで頑張って、本当に偉いね。エリアル(うろ覚えで申し訳ない……)
おじいさんになって、人を褒めて、育てる立場となった人に、こんな風に言える人は世界中でも母親しかいません。
あくまで「母」としてエリアルに会いに行ったマキアのセリフに号泣。
そしてマキアの回想。幼い頃、エリアルと過ごした日々を思い出します。
超大号泣。
物語には、マキアと同い年くらいのレイリアという「別れの一族」の女性が登場します。彼女は王宮にとらわれ、王子と政略結婚させられ、メドメルという子供を産みますが、その子供とは隔離されて一切会えず。
血は繋がっていないけれど、ずっと同じ時を過ごし「ヒビオル」を刻んできたマキアとエリアル。
血は繋がっているけれど、一緒に過ごすことはなく、「ヒビオル」を刻めなかったレイリアとメドメル。
そこもまた、印象的でした。
ストーリー的にはいろいろ穴があるし、「あれ、あいつどうなった?」とか「あいつ物語に必要だったか?」みたいなことはありましたが、でもいい作品。
素晴らしい作品をありがとう。マリー。