♪お江戸日本橋七つ立ち~と歌われる東京・日本橋。
 
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慶長8(1603)年、家康の全国道路整備計画により最初の橋がかけられ、翌年には五街道の基点となりました。
 
以来、江戸で一番賑わう場所として発展。
 
江戸以降は日本道路元標が置かれ、日本の道路網の始点となっております。
 
 
 
 
 
その、日本橋にやって来ました取材班。街はすっかり暮れなずんでおります。
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さてさて、日本橋の南詰めに、「滝の広場」と言うこぢんまりとした広場があります。
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道路より一段下がった広場。壁面に水が流されており、そこから滝の広場と名づけられた様です。
 
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都心も都心、東京のど真ん中。何故この場所が「心霊スポット・コーナー」に登場するのか?
 
それは実はこの場所、あまり知られてはいませんが、江戸時代の刑場跡なのです。
 


 
江戸時代の日本橋南詰には、幅13m奥行13m程の刑場があったのです。
 
この刑場は「晒し刑場」と言われ、女犯の売僧(女性と情を通じた不道徳な僧)や情死未遂者(男・女の心中未遂
 
者)など色恋沙汰の罪を犯した者をここで三日間晒したとされます。
 
江戸で一番の繁華街である日本橋は、晒刑にはうってつけの場所だったのでしょう。晒しがあるといえば、野次
 
馬が鈴なりになって見物したと言います。
 
 
また、主人殺しの罪を犯した者はここで鋸引の仕置を受けたそうです。
 
イメージ 10鋸引仕置の図。
 
刀で肩を切り、その血を鋸に縫って罪人の両脇に
 
立てて2日間晒して見せしめとした後、市中引回し
 
の上で処刑された…そうです。
 
 
 
 
 
 
明治大学博物館に展示してあった鋸引仕置の「穴晒し箱」。
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この中に罪人を入れ、土中に埋めたそうです。(これ、レプリカではなく、本物です…。)
 
 
鋸引きといっても、江戸時代では実際に鋸で首を引いた訳ではなく、あくまで見せしめの象徴として鋸を立ててい
 
ました。建前上は、通行人が鋸を引く事が出来ましたが、実際そんな事をする者はいませんでした。
 
しかし、ある時本当に鋸を引いた者が現われたので、それ以降、役人の見張りが付く事になったとか…。
 


 
日本橋の橋詰にはそれぞれ色々なモニュメントが建っていますが、ここだけポッカリと穴が開いた様な空間にな
 
っています。それも、刑場跡だと知ると何となく納得できます。
 
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南詰西側、高札場跡。
 
法令・禁令などを板札に墨書きし、人々に. 周知する
 
ために、高く掲げた場所です。
 
 
 
 
 
 
 
 
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北詰西側、日本道路元標。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 3北詰東側、日本橋魚市場発祥の地。
 
吉野家の牛丼もここから始まったのです。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
そして、南詰め西側、「滝の広場」。刑場跡を知らせる物は何もありません。
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「晒し刑場」だったので、実際にこの場所で刑死した罪人はいなかったと思います。
 
しかし、死の直前に衆目に晒され屈辱を味わった罪人の念が残っていてもおかしくはない場所…。
 
それが、ここ、「滝の広場」なのです。
 
霊は水を欲すると言われますが、ここに滝を流しているのはもしかすると…なんて思いを巡らせてしまいます。
 
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ここで「幽霊を見た!!」と言う話は聞きませんので、心霊スポット番外編としておきました。
 
華やかな日本橋にも、一面では暗い歴史があると、そう言う話です。
 
 
イメージ 7(←)もうすぐプレイボール!!