アタシはまだその言葉を心底信じられた訳ではなかった。
介護の仕事に就いてから、
目の不自由な方の対応に困ると思って、点字を習い始めた。
点字というのは、よく公共の場でエレベーターやエスカレーター、公園の水飲み場なんかにも気付かないうちに設置してあったりする。
変な話だけど、目の見える人が点字を読むのは比較的簡単なことだと思う。
だって何処に点字が設置してあるのかを自分の目で確認することが出来るのだから、点字の読み方さえ覚えてしまえばたいした苦労ではない。
それが目の不自由な方となると、毎日がまるで障害物競走のような生活を送らなきゃならない中で、目の前に立ちはだかるすべてが邪魔なものばかりに思えてくるし、薬局や飲食店前に置いてあるマスコットにぶつかるたびに謝らなきゃならない。
ホントに何様のつもりで歩道沿いに良い感じの笑顔で突っ立っているワケ!?
アンタたちになんの権限があって、「学校の教室で自分の席に戻ろうとした時に途中で足を出されて体をつんのめらせて生き恥をサラす体験」を公共の面前でかまされなきゃなんないワケッ?
と、これはまぁアタシが思ってることじゃなくて勝手に目の不自由な人の代弁者を名乗り出ただけなんだけど。
話を元に戻そう。
アタシは、3人でまた一緒に暮らしたいと連絡してきた前夫のかなたを、まだ完全に信じきれたわけではなかった。
東野かなたは、変わってしまったのだ。
アタシと娘を棄てる前に、自分を棄ててしまったのだ。おいそれと信用してやるもんか。
だから。
アタシが点字を覚えるついでに手話を習ったからといって、かなたが両耳ともにほとんどの聴力を失ったことがきっかけなどと思われては困る。
それにかなたはもう努力とは無縁の男に成り下がったのだ。
そもそもアタシは、娘といっしょにまた暮らすことが出来れば、後はもう何もいらない。
これからは娘の幸せをイチバンに考えることができるんだ。
だから、だから、
娘の空音が、
DVを受けていたことも、それを離婚するギリギリまで見て見ぬふりをしていたアタシすらも、
ゆるすと言う。
許してくれなくたって、いっしょに暮らせるだけで、いいのに。
さらには、空音がまだかなたを父親として見ていたことに驚いたし、
アタシが前夫をまだ想っていることを娘が見抜いていたことに驚いた。
「東野つみれ」って名乗ってたらそりゃバレるか。
あ~あ…。
空音も、かなたも、アタシも、3人ともおんなじ気持ち。
いっしょにいたい。ずっと。
桜の木の下で、かなたは誓った。
「変わったんだ、オレ。もうあの頃の弱い自分じゃないんだ。オレが変わったかどうかは、これからいっしょに暮らしながらふたりで見極めてくれないかな?」
「…アタシの声、聞こえる!?」
「聞こえない。聞こえないけど、見えるよ。それにつみれの声なら覚えてる」
「空音の泣き声も?」
アタシは意地悪く質問した。
「…うん」
「ヨシッ。忘れんなよ~、かなた!」
空音もアタシに続く。
「忘れんなぁ~、お父ちゃんバラ!」
「おぅ。忘れん。ちゃんばら?」
「じゃあ証拠見せぃ」
「見せぃ」
「証拠見せ?証拠なぁ…」
「見せないとわが家の部屋には」
「入れん」
「でもお茶は」
「出すよ」
「なんなんだよ。この親子の息ピッタリ感。もはや嫉妬を通り越してスネちゃうよ?」
「いいからさっさと」
「証拠見せぃ」
「うっせーな、わかったよ」
「うっせーって」
「聞こえてないのに言っている」
「なんか俳句みたいになってんぞ?」
「……」
「………」
「じゃあ、読唇術を覚えて、植木職人としての自分を取り戻したオレの、もう1つの武器を見せてやる」
かなたはおもむろに、自分の胸の前で握った左手の甲を右手でゆっくりと撫でて見せた。
「…何なのいったい?」
「おまじない?」
「違うちがう、手話だよ手話!つみれなら分かると思ったんだけどなぁ」
「お母ちゃん、分かるの?」
「え~?もう1度やってみせて」
言われるがまま、かなたは握った左手の甲を右手でゆっくり撫でてみせた。
「…やっぱりわかんない。大事なことは口に出して言ってくれないと」
なんだか分からないけど、空音は嬉しくなった。
満開の桜の木の下で、良い年をしたおっさんとおばさんが照れている。
他人には見えない幸せが、アタシにはちゃんと見えてる。
それだけで充分だよ。
ね?
ナカバ。
返事しろ~。
「…ふぁい」
・・・Fin?