皆様こんにちは。
私には子供の頃、変な癖がありました。
いや癖というべきか、習慣というべきかわかりませんが。
一つ目。
両手を高く広げ、裸足で地面に仁王立ちになること。
そうすることで、足の裏からは地からのパワーをぐんぐん吸い上げ、伸ばした両腕の掌からは空からのパワーを吸収している感覚になれるから。
そしてそのパワーをお腹の中心にぐーっと溜めて、身体全体に行き渡らせ、一氣に両足の裏と両掌から放出していました。
何故だか分かりませんが、そういう風な感覚だったとしか言いようがありません。
子供なので理屈はなく、そうすることが氣持ちよくてしょっちゅうやっていました。
二つ目。
逆立ちです。
箪笥の方にえいっと蹴上げて、逆立ちをしていました。しかも毎晩、何年も。
調子が良いと、箪笥から足を離しても倒れずバランスが取れました。
逆立ちするとどういうわけか氣持ちよくなったんです。
今思い返すと、重力から解放される感覚になれていたからではないか、と思います。
バランスが調整される感覚でした。
三つ目。
机の上にある小さな物を「動け」と念じながら、ジーッと見つめること。
全然動かなかった(笑)
ところが、動かないことに対して何故なんだろうと思っていました。
「強く念ずれば、現実は質量の有無に関係なく動く」
そう信じて疑わずやり続けていましたが、動いたことはありません(笑)
勿論、何かしらの物理的な力を加えないと動かないことは知っていたのですが、「強く念じれば動く」と本氣で思っていました。
四つ目。
コンセントの穴の向こうには別の世界があると思って、それを想像して辿っていた。
幼い子供はコンセントの穴などに興味を持つことはよくあります。
が、私の場合はその向こうには異世界があり、自分がその世界には入り込んで冒険しているのを想像していました。
見えないその先の世界が絶対にあると信じて、疑うことがありませんでした。
ほかの小さな穴には無関心で、電気のコンセントの穴の向こうにだけ、それを見ていました。
電氣は異世界と繋がるルートだと感じていたようです。
これら四つの謎の習慣は、私が高校に上がる前くらいまで続いていました。
所謂、中二病みたいなものとは異なる、かなりの変人行動です。
スピリチュアルアンテナの高い人なら、もうお氣付きかもしれません。
このようなかつての私の変人行動は、量子論的に見れば全く突拍子もないものではなく、むしろ量子論的な行動そのものでした。
子供でしたから理屈は分からないけれど、分からないからこそ素直に感じたまま行動していたわけですね。
一つ目の、仁王立ちで天地のエネルギーを取り込み、溜めて、放出する行動。
これはアーシング、グラウンディングです。
二つ目の、逆立ち習慣。
これは、質量のある三次元感覚のストレスからの解放を心地よいと感じていたものです。
三つ目の、念で動かそうとする行動。
これは、集中した強い思念は現実を変える、と思っている量子論的行動ですね。
四つ目の、コンセント穴の向こうの異界に行けると思っていた状態。
これは、電氣(磁力等)の異なる状態、つまり周波数が異なれば今の自分が認識している世界とは全く違う世界が同時に存在している、という量子論的世界観ですね。
余計な知識やその時代の常識にとらわれること、かえって本質から遠ざかります。
言い換えれば、お利口になるればなるほど、三次元·四次元感覚を強めてしまい、自らを重い領域に囲い込んでしまうということです。
質量ありきという先入観は、知識や経験により「そういうもの」として構築されます。
そして、三次元·四次元感覚で自らを閉じ込めたからこその「不可能感」に縛られます。
知識や情報だけが先行し、感覚の伴わないなぞるだけの行いよりも、理屈抜きにただ感覚的にそう感じたからそうした、という方が純度は高く、真理と摂理に近いものになっているものと思います。
そう考えると、一見すると大人には意味の分からない子供たちの純粋な行動は、極めて量子的で純度の高いものなのだと思います。
次元上昇という言葉はあちこちで目にする時代になり、それはそれで何よりだと思う一方で、果たしてどれだけの人が理屈抜きの感覚を伴った行動をしているのだろう……と考えてしまいます。
正解を求めて知識だけを漁ると、自己の感覚は置き去りにしてしまいます。
大の字になってごろんと草の生えた地面に寝て、草と土の香りが心地良いというような感覚。
そういうものこそ一番大事にしなくてはならないのではないか……と思う、今日この頃です。