魂の友の一人であるNさんが、先月下旬に今世を卒業した。
シングルマザーで三人のこどもを抱えていた為、「仕事は生活のため」が当たり前だった。
仕事運に課題の星を持っていたNさんはブラックな職場の引きが強く、相当辛抱強い人だったが、10年で複数回の転職をしていた。
仕事運に課題の星を持つ時点で、「嫌だから働かない」という選択肢は存在しない。
むしろ「充実させたい」氣持ちの方が強くなる。
Nさんはとにかく懸命だった。
キャラの濃すぎる上司や同僚はどこの職場にも居るものだろうが、Nさんの引きは尋常ではなかったように思う。
そういうキャラの濃すぎる人に遭遇しても、「相手が変わってくれる期待」はしないNさん。
そんな期待など無駄である、とよくよく理解していた。
「その人の思考回路や価値観を理解し、自分がどう対処するか」という姿勢だった。
Nさんは、努力家で辛抱強いだけではなかった。
笑顔を絶やすことなく、且つ冷静で、人の痛みに深く共感し、寄り添う人だった。
コロナ禍前だったか、Nさんは初めて生活のための仕事選びではなく、遂に「やりたいことを仕事にする」という選択に至った。
持ち前のガッツでそのための資格も取得し、Nさんと一緒に私はとても喜んだ。
ところが、せっかくやる氣満々で転職活動をしていたのに、新しい職場のご縁がなかなか現れない。
方向性も、意識のあり方も、全く何の問題もない。
にもかかわらず、どうしたことか。
暫くして娘さんから、Nさんは脚の付け根の骨に腫瘍が見付かり手術をすることになった、という連絡を受けた。
出端をくじかれたNさんはショックを受けつつも、やはり持ち前の氣合いで手術に臨み、術後のリハビリにも励んだ。
途中その頑張りが仇となり、逆戻りしたこともあったのだが、車椅子⇒杖⇒杖なし歩行、という回復を見せた。
「早く仕事をしたい。家族に迷惑をかけてしまっている」という焦りを抱えていた。
主治医から仕事復帰のOKをもらうべく、術後の経過を診るための定期検査も受けていたが、なかなかそこに至らなかった。
暫くして、Nさんは再び脚の付け根に強い痛みを感じすぐに検査を受けた。
取りきれなかった深部に腫瘍ができているのが判明した。
手術をした時は良性の腫瘍だった。
でも、再び現れた腫瘍はそうじゃなかった。
診断、
『骨肉腫、余命3ヶ月』
この時点でNさんは歩くことは愚か、座ることも出来ず、寝たきりの状態となっていた。
Nさんの事だから、そんな事になるまで我慢していたのかもしれない。
在宅医療に切り替え、ご自宅に戻った。
回復のために行える治療はなかったからだ。
「落ち込もうと思えば、いくらでもどこまでも、底無しに堕ちることはできる。でも私はまだやりたいことがある。ここで死ぬわけにいかない」と、Nさんは奮起し私に話してくれた。
そこまでNさんが奮起したのには理由がある。
血液の数値が変われば抗がん剤治療を受けられる、ということを知ったからだ。
ハードなリハビリをしていたNさんだが、今度は抗がん剤治療に挑むため、血液の数値をそのレベルに上げるよう、また励んだ。
しかし寝たきりの状態。
Nさんが何に励んだかというと、
「ありがとう。私は学びました。だからガン細胞を宙へお返しします」
というイメージを常に持つことだった。
これは私からのアドバイスによるもので、Nさんはすぐに実践してくれたのだった。
ベッドの上で寝たきりの日々だが、常に「学びの感謝とともに宙へ返す」イメージをしながら、傍らでリビングからこどもたちの声が聴こえてくるのが幸せで、サポートしてくれている周りの人達全てに感謝の日々だと、Nさんは言った。
「とても満たされている」と。
すると本当に血液の数値が変わり、抗がん剤治療を受けられるようになったのだ。
ただ、それは同時にここからまた壮絶な闘病が始まったことを意味した。
ワンクールが一週間の入院で行う抗がん剤治療は、数回のクールに及んだ。
副作用は激しく、髪は抜け落ち痩せていった。
それでもNさんは氣力を絶やさなかった。
イメージをすることも止めなかった。
その結果、医学的にはあり得ない、医師や看護師もびっくりで、信じられない回復を見せた。
殆んどのガンが消えたのだ。
画像には点で微かに分かる程度。
人間の持つ底力は無限だということを、Nさんを通じて誰もが学んだことだろう。
抗がん剤の効果だけではないのは、医師や看護師だからこそ分かるものだったに違いない。
Nさんは、奇跡の体現者となった。
奇跡は起きる事を期待するのではなく、自らが本氣で起こすものなのだ。
寝たきりだったところから、座ることができるようになり、車椅子移動ができるようになり、なんと立つことまでできるようになったのだ。
「キッチンに立ってこどもたちのためにご飯を作るのが楽しい」というメールを貰ったときには心底驚いて、嬉しくて堪らなくなった。
去年の6月に余命3ヶ月を宣告されたとき、一体、誰が12月のNさんの誕生日をご家族でお祝いすることを想像しただろう。
こどもたちが用意してくれたバースデーケーキのプレートに、
「お母さん、奇跡をありがとう」
と書かれていたことを、喜んで私にメールしてくれた。
その後も抗がん剤治療のための入院は続き、その効果を見るための検査も繰り返された。
三人のこどもたちは、それまで交替で常時 Nさんのケアをしていたのだが、Nさんの奇跡を目の当たりにし、今年の春、ほぼ同時期にそれぞれの道を歩みだした。
Nさんから
「こどもたちを愛しています。誇りに思います。三人とも大丈夫。こどもたちの力を、人生を信じています」と、
お母さんとしての幸せが溢れているメールを貰って、私は目頭を熱くした。
それから暫くNさんからのメールが来ておらず氣になっていたところへ、メールが届いた。
「先日の検査で、肺や骨のあちこちにガンが出来ているのが分かりました。もはやこれまでです。氣力は全く落ちていませんが、身体が限界のようです。ホスピスへ行きたい、ゆっくりしたいと思いました。こどもたちも分かってくれました。ホスピスに入ったら会いに来てください」
何度もそのメールを読み返し、涙が止めどなく流れた。
5月8日にNさんはホスピスへ入ったのだが、その日は奇しくもちょうどコロナ対策が大幅に緩和され、面会も制限が殆んどなくなったその日だった。
2日後、在宅ワークにしていた私は昼前にはタスクを終え、Nさんの入院しているホスピスへ面会に伺った。
Nさんと、たまたま来ていた娘さんは、突然現れた私に大層驚き、喜んでくれた。
その時のNさんの姿は、確かに末期の患者さんではあったのだが、病氣になる前よりも美しく、後光が指しているようだった。
私の眼には、徳の高い尼僧さんのように映った。
その輝きは、魂の強さ、美しさそのものだった。
神々しささえ感じるNさんの姿に、私は感動した。
「Nさんと私は、お約束があって出逢ったんですよ。『命とは』ということを私に見せてくれる為に出逢ってます。大丈夫。ちゃんと(Nさんの光を)繋ぎますから。安心してください」
私がそう言うと、
Nさんは
「ありがとうございます、ありがとうございます!それが聞けて良かった!私はちゃんとこの人生で目的を果たせたんですね!出逢えてよかった!ありがとうございます」と、タオルで何度も涙を拭いていた。
ホスピスに入ってから3週間。
娘さんから連絡を受け、お通夜へ行かせていただいた。
焼香しながら遺影に向かい、私は心の中で叫んだ。
「Nさん、お見事です!最高です!本当にありがとうございました。どうやらNさんと私はこれで終わらないみたいですよ。楽しみですね!前よりもっと近くにNさんを感じます。これからもよろしくお願いします!」
娘さん曰く「お母さんは最後までかっこよかった」らしい。
誰の眼にもそれは一目瞭然だった。
これほど強く美しく、優しく、かっこよく、その命の輝きを放った人は、少なくとも私の今世で出逢ったことはない。
まさに『人間のプロ』だった。
私もかくありたいと強く思った。
Nさんと私の魂のご縁は、セカンドステージへと続く。
実はそれを示唆するような出来事があった。
大きな斎場では別のお宅のご葬儀も執り行われていたのだが、『○○家』の文字を見ると、なんと私の苗字と同じだったのだ。
同じ日に、隣り合う儀場で。
二度見どころか、メガネをしっかり上げて五度見くらいした。
ちなみに私の苗字は、少なくとも関西ではよく目にするそれではない。
魂のご縁の深さと強さをこれでもかと見せてもらったのだと確信するには、じゅうぶんすぎるシチュエーションだろう。
お通夜の帰り道、独り歩く私の顔は涙目なのに、笑みを湛えていた。
合掌。