直接舞台を見たわけではありませんが、ピーター・コンヴィチュニー演出のサロメでは、最後、サロメとヨカナーンの二人が手に手を取ってヘロデの王宮(近未来の核シェルターという設定だとか)から脱出するそうです。かなりの改作と言えますが、サロメが相当の閉塞感をもって人生を送っていたことは原作の戯曲からも元々のオペラからも窺い知れるところです。王宮でのパーティでの息苦しさと自分を見つめるヘロデ王の視線が嫌になって外に出てきたところで預言者ヨカナーン(イエスを洗礼したヨハネ)の声に惹きつけられてしまうわけです。彼女がまだ14歳の子供だということを押さえておく必要があります。サロメは先王とその妻ヘロディアスの間の子ですが、ヘロディアスは先王の弟ヘロデと姦通し、(恐らくヘロデと共謀して)先王を殺してしまいます。こうして弟のヘロデが王位を継ぎ、サロメを連れヘロデと再婚したヘロディアスは引き続き王妃の座に座り続けます。サロメはこうしたいきさつを全部知っているのでしょうが、どうしようもありません。こんな環境で育った王女様はどのような人間になってしまうものなのでしょう?
まだ14歳ではありますが、育った環境のせいか、サロメはもう男を誘惑し、意のままに扱う術を心得ています(というかそんなこと以外何を学んで来ることができたのでしょうか、彼女の境遇において)。自分に気のある家来の男に命じて、王の命令に反して、ヨカナーンを自分の許へと連れて来させます。まだ子供のサロメには、ヨカナーンの言葉の意味を理解することができません。ただ彼の話す言葉と彼の肉体を美しいと感じるだけです。しかしサロメは、無意識のうちに自分が閉じ込められた狭くて息苦しい世界からの解放の可能性を、救世主イエスの到来を告げるヨカナーンの言葉の響きのうちに感じ取っていたのかもしれません。
一方ヨカナーンは、イエスが自ら洗礼を受けに来た程の人格者で、ヘロデ王とヘロディアスの腐敗と堕落を一切の妥協なく糾弾する正義の人ではありますが、目の前で(無意識のうちに)救いを求めているサロメとちゃんと向き合おうとはしません。まだこどもでもあり、自分が置かれている状況下でどうしたらよいのかもわからないサロメは明らかに救いを必要としているのですが、偉大なる預言者ヨカナーンは目の前にいる迷える子羊をどうすることもできない(どうしようともしない)わけです。
物語のありうべき結末、というものを考えた場合、サロメとヨカナーンというカップルが何らかの形で「救済」され、彼女達が閉じ込められている場所から脱出する、というのは一つの可能性であるように思えます。ダンスの後、ヨカナーンの首に語りかけるサロメのモノローグは実ることなく終った一つの愛のチャンスへのエレジーとなっています。もしこの愛の告白に対して洗礼者ヨハネが答えたとしたならば(彼女の呼びかけに答えてヨカナーンも自らを変貌させることが出来たならば)...コンヴィチュニーがこの二人の愛の可能性というものを舞台の上で積極的に提示して見せたことにも一片の合理性があるのでしょう。サロメとヨカナーンは、結ばれるべき(救済の可能性を与えられるべき)カップルだったのです。
1953年に公開されたリタ・ヘイワース主演のハリウッド版サロメでは、最後、恋人でガラリアの司令官であるクローディアスとともにヘロデの王宮を脱出したサロメは、ヨカナーンの予言に従ってイエスの許に赴きます。人気ハリウッド女優リタ・ヘイワースが演じるサロメは善きキリスト教徒でなければならないというハリウッドならではのご都合主義とはいえ、サロメを最終的に脱出させるという点ではコンヴィチュニーのアイデアに先駆するものとなっています。まさかコンヴィチュニーがこの映画から大なる影響を受けたということはありえないでしょうが、この映画を見たことはあるのではないかと推測します。
映画では、クローディアスとサロメはヨカナーンを信頼するようになり、彼の命を助けるためにサロメはヘロデ王の前でダンスをすることを決意します。サロメであるリタ・ヘイワースがいやらしいダンスを披露するのは、あくまでヘロデ王からヨカナーンの命の保証を取り付けるための方便であり、嫌々のことであるわけです。とはいえ、リタ・ヘイワースのダンスはセクシーでエロティックです。1953年にこの映画を見に行った人は、このダンスシーンに大いに期待していたのではないでしょうか。中にはこのシーンだけを目当てに映画館へ繰り出した人も少なからずあったのでは。ひょっとしたらヌードが見えるんじゃないか、なんて勝手に思い込んで期待していた人もいたりして。さすがにヌードとまではいきませんが、53年にこれならかなりのインパクトだっただろうし(元々リタ・ヘイワースはダンサーだったんですね)、興行という観点からは最重要ポイントだったのではないでしょうか。
実際にはこのシーンでのお色気でお客さんを呼び込もうという作戦なのですが、リタ・ヘイワースをただの淫乱なストリップダンサーにするというわけにはいかないので、表面的にはキリストの洗礼者であるヨハネの命を助けるためにしょうがなくこんな踊りをやってんだ、という筋にしておいて、実は観客も製作者サイドもここでのストリップに一番期待しているという。これなら安心して淫らな踊りを楽しめます。少なくともヘロデ王は多少の罪悪感を感じながらサロメの踊りを見たことでしょうが、我々はヘロデ王程の罪悪感を感じる必要もありません。ヘロデ王と我々、サロメの踊りを見ている時より邪悪なのはどちらなのでしょう。善なる建前をもって邪淫にふけるというこの背徳。資本主義のこの矛盾。そしてこの背徳、この矛盾を批判する者にとっても抗いがたいリタ・ヘイワースの魔力。
http://www.youtube.com/watch?v=VJi8xd38zwE&feature=related
まだ14歳ではありますが、育った環境のせいか、サロメはもう男を誘惑し、意のままに扱う術を心得ています(というかそんなこと以外何を学んで来ることができたのでしょうか、彼女の境遇において)。自分に気のある家来の男に命じて、王の命令に反して、ヨカナーンを自分の許へと連れて来させます。まだ子供のサロメには、ヨカナーンの言葉の意味を理解することができません。ただ彼の話す言葉と彼の肉体を美しいと感じるだけです。しかしサロメは、無意識のうちに自分が閉じ込められた狭くて息苦しい世界からの解放の可能性を、救世主イエスの到来を告げるヨカナーンの言葉の響きのうちに感じ取っていたのかもしれません。
一方ヨカナーンは、イエスが自ら洗礼を受けに来た程の人格者で、ヘロデ王とヘロディアスの腐敗と堕落を一切の妥協なく糾弾する正義の人ではありますが、目の前で(無意識のうちに)救いを求めているサロメとちゃんと向き合おうとはしません。まだこどもでもあり、自分が置かれている状況下でどうしたらよいのかもわからないサロメは明らかに救いを必要としているのですが、偉大なる預言者ヨカナーンは目の前にいる迷える子羊をどうすることもできない(どうしようともしない)わけです。
物語のありうべき結末、というものを考えた場合、サロメとヨカナーンというカップルが何らかの形で「救済」され、彼女達が閉じ込められている場所から脱出する、というのは一つの可能性であるように思えます。ダンスの後、ヨカナーンの首に語りかけるサロメのモノローグは実ることなく終った一つの愛のチャンスへのエレジーとなっています。もしこの愛の告白に対して洗礼者ヨハネが答えたとしたならば(彼女の呼びかけに答えてヨカナーンも自らを変貌させることが出来たならば)...コンヴィチュニーがこの二人の愛の可能性というものを舞台の上で積極的に提示して見せたことにも一片の合理性があるのでしょう。サロメとヨカナーンは、結ばれるべき(救済の可能性を与えられるべき)カップルだったのです。
1953年に公開されたリタ・ヘイワース主演のハリウッド版サロメでは、最後、恋人でガラリアの司令官であるクローディアスとともにヘロデの王宮を脱出したサロメは、ヨカナーンの予言に従ってイエスの許に赴きます。人気ハリウッド女優リタ・ヘイワースが演じるサロメは善きキリスト教徒でなければならないというハリウッドならではのご都合主義とはいえ、サロメを最終的に脱出させるという点ではコンヴィチュニーのアイデアに先駆するものとなっています。まさかコンヴィチュニーがこの映画から大なる影響を受けたということはありえないでしょうが、この映画を見たことはあるのではないかと推測します。
映画では、クローディアスとサロメはヨカナーンを信頼するようになり、彼の命を助けるためにサロメはヘロデ王の前でダンスをすることを決意します。サロメであるリタ・ヘイワースがいやらしいダンスを披露するのは、あくまでヘロデ王からヨカナーンの命の保証を取り付けるための方便であり、嫌々のことであるわけです。とはいえ、リタ・ヘイワースのダンスはセクシーでエロティックです。1953年にこの映画を見に行った人は、このダンスシーンに大いに期待していたのではないでしょうか。中にはこのシーンだけを目当てに映画館へ繰り出した人も少なからずあったのでは。ひょっとしたらヌードが見えるんじゃないか、なんて勝手に思い込んで期待していた人もいたりして。さすがにヌードとまではいきませんが、53年にこれならかなりのインパクトだっただろうし(元々リタ・ヘイワースはダンサーだったんですね)、興行という観点からは最重要ポイントだったのではないでしょうか。
実際にはこのシーンでのお色気でお客さんを呼び込もうという作戦なのですが、リタ・ヘイワースをただの淫乱なストリップダンサーにするというわけにはいかないので、表面的にはキリストの洗礼者であるヨハネの命を助けるためにしょうがなくこんな踊りをやってんだ、という筋にしておいて、実は観客も製作者サイドもここでのストリップに一番期待しているという。これなら安心して淫らな踊りを楽しめます。少なくともヘロデ王は多少の罪悪感を感じながらサロメの踊りを見たことでしょうが、我々はヘロデ王程の罪悪感を感じる必要もありません。ヘロデ王と我々、サロメの踊りを見ている時より邪悪なのはどちらなのでしょう。善なる建前をもって邪淫にふけるというこの背徳。資本主義のこの矛盾。そしてこの背徳、この矛盾を批判する者にとっても抗いがたいリタ・ヘイワースの魔力。
http://www.youtube.com/watch?v=VJi8xd38zwE&feature=related