テリー・イーグルトンの『宗教とは何か』(大橋洋一、小林久美子訳、青土社)を市立図書館で借りて読みました。
予想通り、というか、一寸前にビデオで紹介したジジェクとデリダの議論を自己流に良いとこ取りしたような内容でした。この二人とも本文の中でメンションされます。ジジェクに対しては(同じ左翼同士ということで?)特に批判めいたことは言っていませんが、ジジェクとイーグルトンにとって共通の敵である「ポストモダンのリベラリスト」の代表選手デリダに対しては、実質的には彼の議論に乗っかっているのに、表向きは(相変わらず)批判を続けています。
イーグルトンは、まず自分がアイリッシュ系カトリックとして英国の労働者階級の家庭に生まれたことに触れます。あまりに単純なことですが、こうした出自を聞いただけで、その人が基本的にどんな人かわかってしまいます。イーグルトンがアル中であることも頷けます。
また、そうした人間にとっての(キリスト教)神学の理解が、ジェームス・ジョイスもそうだったように、トマス・アキィナスに基いていることも容易に想像がつきます。
イーグルトンは、現代の「科学主義」が、キリスト教を、単なる、宇宙創造に関する誤った(馬鹿げた)作り話に貶め、斥けることに異を唱えます。
「トマス・アクィナスにとって<造物主としての神>は、世界がいかに誕生したかについての仮説ではない。それは、たとえば、世界が、量子真空のランダムなゆらぎから帰結したという理論と競い合うものではない。じっさい、アクィナスは、世界には起源などないという可能性だって、喜んで受け入れたであろう。...キリスト教はそもそも、なにかについての説明たることを意図されていない。」
「科学者は、至高の想像的芸術家である。彼らは、こと宇宙に関することとなると、エレガントで美しいものが、醜く歪んだものよりも真実である可能性が高いとみている。科学的観点からすれば、宇宙の真実は、そのもっとも深い意味において様式の問題であって、プラトンやシャフツベリー伯爵やジョン・キーツと考え方は同じなのである。そしてすくなくともこの意味において、科学は特定の価値観を担っている。」
「キリスト教神学にとって、神は大製造業者ではない。神は、その愛によって、すべての存在を維持するものであり、このことは、たとえ世界に始まりがなくともかわらないだろう。創造は、ものごとを始めることとは関係がない。むしろ神は、無があるのではなく、なにかがあることの存在理由なのであり、いかなる実体にとってもその可能性の条件なのである。しかしながら彼自身は、いかなる種類の実体でもないので、彼を実体の一つに数えることはできない。」
「そもそも<造物主>とは、飛び切り合理的な意匠設計にもとづき作業する宇宙の工学技術者などではなく、芸術家であり、おまけに審美家であって、機能的な目的を念頭に置くことなく世界を創造したのである - ただ世界への愛と喜びのために。」
「神は、おふざけで(for the hell of it)、創造した。彼は世界を贈り物として、剰余として、無償の行為として、創ったのである。冷厳な必然性からではなく、ただの無から。」
この世界(宇宙)は、何らかの「機能的な目的」をもって作られたのではない。神は、ただの「おふざけ」でこの世界を作ったのだ。「目的」などなかった。
言い方を換えれば、神は、この世界を作る「必要」はなかった。神は、「遊び」で、「余分」なものとしてこの世界を作ったのだ。神が何の必要も、目的もなくこの宇宙を創造したことは、神がこの世界を創る時、何の「見返り」をも求めたかったことを意味する。神がこの世界を創ったのは、「無償」の行為であり、よって、この世界は神からの「贈り物」である。
上の引用の中には、明らかにジジェクとデリダの考えがエコーしている。先日紹介した「愛」について語ったジジェクのビデオの中で、彼は、
「Things exist by mistake.」と語り、この世にモノが存在するのは、宇宙(真空)のバランスが崩れ、「Something went terribly wrong.」の結果だと言っていました。また、モノを出現させたバランスの崩れ、「何かの間違い」の暴力性のことを指して「愛」と呼んでいました。
また、「見返り」を求めない、「無償の贈与」という「不可能」な行為とは、デリダが提起した考えです。
「キリスト教神学にとって、世界にたいしては、いかなる必然性もなく、そのため神は、そもそも慰みに世界を創るというセンチメンタルな衝動に屈したことをずっと苦々しく後悔しつづけていてもおかしくないのだ。彼は世界を愛ゆえにこしらえたのであり、必要ゆえにこしらえたのではない。彼にとって世界の中にはなにも存在していなかった。創造は、起源にある<無償の行為>である。世界は無から創られたという教理は、宇宙のめくるめく偶然性に私達の注意を喚起すべく意図されている。」
「無からの創造とは、世界が先行する過程の不可避の頂点ではなく、いわんや、なんらかの因果関係の連鎖の帰結でもないことの証左なのである。宇宙はには必然性がないがゆえに、わたしたちは、宇宙をア・プリオリに統括する法則を演繹できず、そのかわりに、宇宙の実際の働きを観察することを余儀なくされる。この観察は科学の務めである。」
「神学者に関心があるのは、そもそもなぜわたしたちは説明を求めるのかという問いであり、またなぜわたしたちは、宇宙のことを、説明を可能にするかたちにまとまっていると想定するのかという問題なのだ。」
「説明とか規則性とか理解可能性といった私達の概念は、どこから生まれてくるのか。合理性とか理解可能性そのものを、わたしたちはどうやって説明するのか。」
「わたしたちは合理性について説明出来ないのではないか。説明しようとすれば、合理性があることを最初から前提とするのでから。」
「あまたあるものの中で数学だけが、物理的宇宙の理解可能性を解読できるように思われるのはなぜか。科学が、数学の首尾一貫性に絶対の信頼を置いているのは理にかなったことなのだろうか。ゲーデルの第二不完全性定理によれば、そのような一貫性は証明できないというのに。」
わたしも、ジョイスやイーグルトンのようにトマス・アクィナスをちゃんと読もうと思います。
さて、いよいよイエスの登場です。
「イエスが説く道徳は、思慮分別を欠き、法外で、軽率で、常軌を逸し、不動産業者にとっては躓きの石にほかならない。なにしろ、汝の敵を許せ、外套だけでなくコートもあたえよ、明日のことは考えるな、もうひとつの頬を差し出せ、あなたを侮辱するものを愛せ、というのだから。」
「神は人間を必要としているわけではなく、ただ、手慰みに私達を造形したに過ぎない。であるから、神は私達を神経症的に思い通りにしようとはしない。神は私達を放置できる。そして、この放置を表す単語が自由であり、キリスト教神学では、まさにこの自由において、私達は、神に最も深い形で属するのである。」
「トマス・アクィナスにとって、神とは、わたしたちを、わたしたちにしてくれるものである。これこそ、神が私達を神自身の似姿をもつものとして創造したというときに意味していることである。何しろ神自身が純粋な自由であるからだ。そこから次の帰結がみちびきだされる。神はまた私達が神を拒否できる根拠でもあるのだ。」
「神は、わたしたちがよき中産階級リベラルになって、神のことをほったらかしにしないように働きかける検閲的権力ではない。自由という解放原理が、なにを隠そう自由意志というキリスト教概念に源を持つ。リベラリズムとユダヤ・キリスト教とのこうした類似に光をあてることは、リベラリズムあるいは啓蒙主義の大いなる遺産を軽んずることにはならない。」
「聖書における非ー神、あるいは反ー神とは、生贄やひとりよがりの自己正当化行為を憎む者であり、偶像と物神の敵であり、ありとあらゆる種類の神のイメージー神々、教会、儀礼的生贄、星条旗、国民、性、成功、イデオロギーその他ーの敵である。」
「救済は飢える者に食べ物をあたえること、移民を暖かく迎えること、病人を見舞うこと、貧しき者達や孤児達や未亡人達を富める者達の暴力から守ることである。」
イーグルトンのイメージする、イエスの神は、「愛」の神であり、罪を告発するサディステックな判事ではない。
「尽きせぬ自己充足的生の源泉を、イエスは父なる神と呼ぶのだが、この神は、判事でもなければ家父長でもなく、告発者でもなければ超自我でもなく、恋人であり、被告人であり、弁護士なのだ。イエスは罪について、殆ど何も語っていない。彼の使命は、男女のもろさをうけいれることであり、それをとがめだてることではなかった。」
「イエスの中にあるサタン的あるいは超自我的神のイメージをこのように覆すことは、法と欲望との癒着を、あるいはラカンが現実界と呼ぶものを解除することに繫がる。この致命的な癒着こそ、私達が法そのものへの病的な愛に走る条件であり、そこからさらに私達は、その法のもたらす抑圧的な不幸な状態を愛するようになり、自らを罪深さゆえに罰してもらうこと以外眼中になくなる。」
「この衝動、すなわち、つまり自分のことをまるで塵のように廃棄してやまないこの衝動こそ、フロイトが死の欲動と名付けたものであり、それは、愛の無条件の受け入れの対極にある。パウロは書いている。法と、それが生み出す罪悪感は、死をこの世界にもたらすものであると。」
イーグルトンは、フロイトのマゾキズム論を持ち出してくる。
「旧約聖書の神が、サディスティックな鬼として描かれることが多いとすれば、その理由の一つは、男も女も、抑圧状態にしがみつき、そこから生まれる自虐的喜びを維持するためには何もいとわない。彼らにとって罪悪感から解放されることは、自らを動かしてくれる病そのものを奪われてしまうことだ。」
罪悪感とは苦しいものですが、実は私達は、無意識的に、この罪悪感に苛まれることに快感を感じているのです。罪悪感というのは、ある意味、世の中から、人から、かまってもらっている、という意識ですからね。それが、罪悪感からのがれられない理由です。知らないうちにそれが快感になっていて、それなしで生きられなくなっている、それなしでは世の中に存在しているような気になれなくなっているわけですから。罪悪感とは麻薬みたいなものです。不健全です。そんな鎖に繫がれていることに快感を感じるより、自分自身の生の充実を考える方が健康的です。
イーグルトンは、イエスの本来の教えは、信者を罪悪感で縛り、支配することではなかったと説きます。それは後に教会が始めたことです。
イエスが始めた本来のキリスト教はあくまで、人間が充実した生を送ることを望む「愛」の宗教です。但し、この「愛」は、生半可な愛ではありません。仮借ない、暴力的な愛です。
「キリスト教の教えによれば、神の愛と許しは、私達の感傷的な妄想を粉砕し、わたしたちの世界を情け容赦なくひっくり返す。イエスにおいてこの法は、愛と慈悲の法である」
「ゴルゴダの丘の、鞭打たれて血まみれになった犠牲羊こそが、いまや法のシニフィアンになる。すなわち、正義と共感という神の法に忠実な者達は、国家によって処刑されるということだ。もしあなたが愛さないなら、あなたは死んでいる。もしあなたが愛するなら、あなたは殺されるだろう。フロイトは宗教を、人間の条件の過酷さを緩和するものとみた。しかし、次のように主張してもあながち間違いとは言えないだろう。私達が現実と呼ぶものの方が、福音書の過酷な要求を緩和するものであると。」
この部分は、死なせてしまった子供に責められる夢を見ていた父親が夢から覚める話を解釈したジジェク(ラカン)の分析を思い起させる。(夢の中の、福音書の中の)現実界(the real)から逃れるために、われわれは日常生活という現実(reality)を作っているのだ。
貧しい人々、排除される人々に対する「愛」を実践するイエスの過激な思想は、革命的左翼を自称するイーグルトンの求める社会変革を根底において支えるものであるが、勿論、現在の高度資本主義社会では、元々のイエスの思想は、骨抜きにされてしまう。「真実の愛」とは、実は過激な愛であり、国民の大半が「中流」意識を持つ、中庸を美徳とする国々では、むしろ厄介で迷惑なもの、社会秩序を乱すものなのである。イエスの罪状もまさに社会紊乱であった。
「激しい愛を求める神にかんして、真正なイメージとなるのは、拷問され、処刑される政治犯、それも、聖書で<アナウィム>と呼ばれる貧窮し家を失った者達と、連帯しながら死ぬ政治犯である。ローマ人は、十字架による磔刑を、もっぱら政治犯のためだけに適用していた。
「この<アナウィム>とは、地の屑である。イエス自身も、つねに彼らの代弁者として提示されてきた。イエスの死と地獄めぐりは、狂気と恐怖と不条理と自己放棄への旅である。なぜならそこまで深くきりこむ革命だけが、私達の悲惨な状況に答えてくれるからだ。」
「高度資本主義社会は、内在的に無神論的である。パッケージ化された充足、管理された欲望、管理された政治、そして消費経済からなるこの社会が、ある程度の深刻さをともなった政治的・道徳的問いかけをはなから締め出しているのだ。こうした環境下では、そもそも神の意味はあるのだろうか。それがイデオロギー的正当化、精神的ノスタルジア、価値なき世界から私的領域へと解放されるときの手段以外に、いかなる使い道があるというのだろうか。」
さて、第1章についてだけで、ここまで来てしまいました。まだまだ考えさせられるところはいくらでもありますが、きりがないので、あと一つだけ。
第3章は、「信仰と理性」と題され、理性と、理性を支える(あるいは暴走させる)理性以前にあるものとの関係が考察されます。デリダも引き合いに出され批判されますが、「信仰と理性」というテーマ自体、そもそもデリダが問題化することによって近年再浮上してきたテーマで、イーグルトンの議論も、デコンストラクション(脱構築)出来ない(脱構築以前の)「正義」とか、他者とコミュニケーションを始める以前に既に発せられている「yes」といったデリダが提示した考えの上に乗っかっていることだけは指摘しておきたいと思います。イーグルトンも、どうしてもデリダに対しては素直になれないようです。デリダは、パソコンも普及していない時代に、ジョイスの『ユリシーズ』の英語版とフランス語訳に、何回「yes」が出てきたか数えて比べた程の「肯定」(affirmation)の思想家でした。
こないだのビデオでも言っていたように、デリダにとっての祈りは、自分の中のある一部を肯定affirmすることでもあるのです。
日本人のように、神と仏の区別もつかない人種でも「祈り」ます。日本人が祈る時、誰に対して祈っているのでしょう。「洗礼」も「割礼」も知らない世界でも類まれなる無神論者の日本人は、祈る時、何を信じているのでしょう。日本人は、何かを信じることができるのでしょうか。「信じる」という行為を知っているのでしょうか。
バッハのヨハネ受難曲の冒頭部分でも貼っておきましょう。受難というのは英語でPassionであり、もう日本語にもなっていますが、passionは、ふつうは「情熱」と訳されます。われわれちんけな人間の罪を一身に背負って十字架に釘で打ちつけられ、血行障害で死んだ人間(神の子)の情熱がPassionです。(パッション八良のパッションは健在なのでしょうか?)
http://www.youtube.com/watch?v=QJ0Vgb99tsQ&feature=related
予想通り、というか、一寸前にビデオで紹介したジジェクとデリダの議論を自己流に良いとこ取りしたような内容でした。この二人とも本文の中でメンションされます。ジジェクに対しては(同じ左翼同士ということで?)特に批判めいたことは言っていませんが、ジジェクとイーグルトンにとって共通の敵である「ポストモダンのリベラリスト」の代表選手デリダに対しては、実質的には彼の議論に乗っかっているのに、表向きは(相変わらず)批判を続けています。
イーグルトンは、まず自分がアイリッシュ系カトリックとして英国の労働者階級の家庭に生まれたことに触れます。あまりに単純なことですが、こうした出自を聞いただけで、その人が基本的にどんな人かわかってしまいます。イーグルトンがアル中であることも頷けます。
また、そうした人間にとっての(キリスト教)神学の理解が、ジェームス・ジョイスもそうだったように、トマス・アキィナスに基いていることも容易に想像がつきます。
イーグルトンは、現代の「科学主義」が、キリスト教を、単なる、宇宙創造に関する誤った(馬鹿げた)作り話に貶め、斥けることに異を唱えます。
「トマス・アクィナスにとって<造物主としての神>は、世界がいかに誕生したかについての仮説ではない。それは、たとえば、世界が、量子真空のランダムなゆらぎから帰結したという理論と競い合うものではない。じっさい、アクィナスは、世界には起源などないという可能性だって、喜んで受け入れたであろう。...キリスト教はそもそも、なにかについての説明たることを意図されていない。」
「科学者は、至高の想像的芸術家である。彼らは、こと宇宙に関することとなると、エレガントで美しいものが、醜く歪んだものよりも真実である可能性が高いとみている。科学的観点からすれば、宇宙の真実は、そのもっとも深い意味において様式の問題であって、プラトンやシャフツベリー伯爵やジョン・キーツと考え方は同じなのである。そしてすくなくともこの意味において、科学は特定の価値観を担っている。」
「キリスト教神学にとって、神は大製造業者ではない。神は、その愛によって、すべての存在を維持するものであり、このことは、たとえ世界に始まりがなくともかわらないだろう。創造は、ものごとを始めることとは関係がない。むしろ神は、無があるのではなく、なにかがあることの存在理由なのであり、いかなる実体にとってもその可能性の条件なのである。しかしながら彼自身は、いかなる種類の実体でもないので、彼を実体の一つに数えることはできない。」
「そもそも<造物主>とは、飛び切り合理的な意匠設計にもとづき作業する宇宙の工学技術者などではなく、芸術家であり、おまけに審美家であって、機能的な目的を念頭に置くことなく世界を創造したのである - ただ世界への愛と喜びのために。」
「神は、おふざけで(for the hell of it)、創造した。彼は世界を贈り物として、剰余として、無償の行為として、創ったのである。冷厳な必然性からではなく、ただの無から。」
この世界(宇宙)は、何らかの「機能的な目的」をもって作られたのではない。神は、ただの「おふざけ」でこの世界を作ったのだ。「目的」などなかった。
言い方を換えれば、神は、この世界を作る「必要」はなかった。神は、「遊び」で、「余分」なものとしてこの世界を作ったのだ。神が何の必要も、目的もなくこの宇宙を創造したことは、神がこの世界を創る時、何の「見返り」をも求めたかったことを意味する。神がこの世界を創ったのは、「無償」の行為であり、よって、この世界は神からの「贈り物」である。
上の引用の中には、明らかにジジェクとデリダの考えがエコーしている。先日紹介した「愛」について語ったジジェクのビデオの中で、彼は、
「Things exist by mistake.」と語り、この世にモノが存在するのは、宇宙(真空)のバランスが崩れ、「Something went terribly wrong.」の結果だと言っていました。また、モノを出現させたバランスの崩れ、「何かの間違い」の暴力性のことを指して「愛」と呼んでいました。
また、「見返り」を求めない、「無償の贈与」という「不可能」な行為とは、デリダが提起した考えです。
「キリスト教神学にとって、世界にたいしては、いかなる必然性もなく、そのため神は、そもそも慰みに世界を創るというセンチメンタルな衝動に屈したことをずっと苦々しく後悔しつづけていてもおかしくないのだ。彼は世界を愛ゆえにこしらえたのであり、必要ゆえにこしらえたのではない。彼にとって世界の中にはなにも存在していなかった。創造は、起源にある<無償の行為>である。世界は無から創られたという教理は、宇宙のめくるめく偶然性に私達の注意を喚起すべく意図されている。」
「無からの創造とは、世界が先行する過程の不可避の頂点ではなく、いわんや、なんらかの因果関係の連鎖の帰結でもないことの証左なのである。宇宙はには必然性がないがゆえに、わたしたちは、宇宙をア・プリオリに統括する法則を演繹できず、そのかわりに、宇宙の実際の働きを観察することを余儀なくされる。この観察は科学の務めである。」
「神学者に関心があるのは、そもそもなぜわたしたちは説明を求めるのかという問いであり、またなぜわたしたちは、宇宙のことを、説明を可能にするかたちにまとまっていると想定するのかという問題なのだ。」
「説明とか規則性とか理解可能性といった私達の概念は、どこから生まれてくるのか。合理性とか理解可能性そのものを、わたしたちはどうやって説明するのか。」
「わたしたちは合理性について説明出来ないのではないか。説明しようとすれば、合理性があることを最初から前提とするのでから。」
「あまたあるものの中で数学だけが、物理的宇宙の理解可能性を解読できるように思われるのはなぜか。科学が、数学の首尾一貫性に絶対の信頼を置いているのは理にかなったことなのだろうか。ゲーデルの第二不完全性定理によれば、そのような一貫性は証明できないというのに。」
わたしも、ジョイスやイーグルトンのようにトマス・アクィナスをちゃんと読もうと思います。
さて、いよいよイエスの登場です。
「イエスが説く道徳は、思慮分別を欠き、法外で、軽率で、常軌を逸し、不動産業者にとっては躓きの石にほかならない。なにしろ、汝の敵を許せ、外套だけでなくコートもあたえよ、明日のことは考えるな、もうひとつの頬を差し出せ、あなたを侮辱するものを愛せ、というのだから。」
「神は人間を必要としているわけではなく、ただ、手慰みに私達を造形したに過ぎない。であるから、神は私達を神経症的に思い通りにしようとはしない。神は私達を放置できる。そして、この放置を表す単語が自由であり、キリスト教神学では、まさにこの自由において、私達は、神に最も深い形で属するのである。」
「トマス・アクィナスにとって、神とは、わたしたちを、わたしたちにしてくれるものである。これこそ、神が私達を神自身の似姿をもつものとして創造したというときに意味していることである。何しろ神自身が純粋な自由であるからだ。そこから次の帰結がみちびきだされる。神はまた私達が神を拒否できる根拠でもあるのだ。」
「神は、わたしたちがよき中産階級リベラルになって、神のことをほったらかしにしないように働きかける検閲的権力ではない。自由という解放原理が、なにを隠そう自由意志というキリスト教概念に源を持つ。リベラリズムとユダヤ・キリスト教とのこうした類似に光をあてることは、リベラリズムあるいは啓蒙主義の大いなる遺産を軽んずることにはならない。」
「聖書における非ー神、あるいは反ー神とは、生贄やひとりよがりの自己正当化行為を憎む者であり、偶像と物神の敵であり、ありとあらゆる種類の神のイメージー神々、教会、儀礼的生贄、星条旗、国民、性、成功、イデオロギーその他ーの敵である。」
「救済は飢える者に食べ物をあたえること、移民を暖かく迎えること、病人を見舞うこと、貧しき者達や孤児達や未亡人達を富める者達の暴力から守ることである。」
イーグルトンのイメージする、イエスの神は、「愛」の神であり、罪を告発するサディステックな判事ではない。
「尽きせぬ自己充足的生の源泉を、イエスは父なる神と呼ぶのだが、この神は、判事でもなければ家父長でもなく、告発者でもなければ超自我でもなく、恋人であり、被告人であり、弁護士なのだ。イエスは罪について、殆ど何も語っていない。彼の使命は、男女のもろさをうけいれることであり、それをとがめだてることではなかった。」
「イエスの中にあるサタン的あるいは超自我的神のイメージをこのように覆すことは、法と欲望との癒着を、あるいはラカンが現実界と呼ぶものを解除することに繫がる。この致命的な癒着こそ、私達が法そのものへの病的な愛に走る条件であり、そこからさらに私達は、その法のもたらす抑圧的な不幸な状態を愛するようになり、自らを罪深さゆえに罰してもらうこと以外眼中になくなる。」
「この衝動、すなわち、つまり自分のことをまるで塵のように廃棄してやまないこの衝動こそ、フロイトが死の欲動と名付けたものであり、それは、愛の無条件の受け入れの対極にある。パウロは書いている。法と、それが生み出す罪悪感は、死をこの世界にもたらすものであると。」
イーグルトンは、フロイトのマゾキズム論を持ち出してくる。
「旧約聖書の神が、サディスティックな鬼として描かれることが多いとすれば、その理由の一つは、男も女も、抑圧状態にしがみつき、そこから生まれる自虐的喜びを維持するためには何もいとわない。彼らにとって罪悪感から解放されることは、自らを動かしてくれる病そのものを奪われてしまうことだ。」
罪悪感とは苦しいものですが、実は私達は、無意識的に、この罪悪感に苛まれることに快感を感じているのです。罪悪感というのは、ある意味、世の中から、人から、かまってもらっている、という意識ですからね。それが、罪悪感からのがれられない理由です。知らないうちにそれが快感になっていて、それなしで生きられなくなっている、それなしでは世の中に存在しているような気になれなくなっているわけですから。罪悪感とは麻薬みたいなものです。不健全です。そんな鎖に繫がれていることに快感を感じるより、自分自身の生の充実を考える方が健康的です。
イーグルトンは、イエスの本来の教えは、信者を罪悪感で縛り、支配することではなかったと説きます。それは後に教会が始めたことです。
イエスが始めた本来のキリスト教はあくまで、人間が充実した生を送ることを望む「愛」の宗教です。但し、この「愛」は、生半可な愛ではありません。仮借ない、暴力的な愛です。
「キリスト教の教えによれば、神の愛と許しは、私達の感傷的な妄想を粉砕し、わたしたちの世界を情け容赦なくひっくり返す。イエスにおいてこの法は、愛と慈悲の法である」
「ゴルゴダの丘の、鞭打たれて血まみれになった犠牲羊こそが、いまや法のシニフィアンになる。すなわち、正義と共感という神の法に忠実な者達は、国家によって処刑されるということだ。もしあなたが愛さないなら、あなたは死んでいる。もしあなたが愛するなら、あなたは殺されるだろう。フロイトは宗教を、人間の条件の過酷さを緩和するものとみた。しかし、次のように主張してもあながち間違いとは言えないだろう。私達が現実と呼ぶものの方が、福音書の過酷な要求を緩和するものであると。」
この部分は、死なせてしまった子供に責められる夢を見ていた父親が夢から覚める話を解釈したジジェク(ラカン)の分析を思い起させる。(夢の中の、福音書の中の)現実界(the real)から逃れるために、われわれは日常生活という現実(reality)を作っているのだ。
貧しい人々、排除される人々に対する「愛」を実践するイエスの過激な思想は、革命的左翼を自称するイーグルトンの求める社会変革を根底において支えるものであるが、勿論、現在の高度資本主義社会では、元々のイエスの思想は、骨抜きにされてしまう。「真実の愛」とは、実は過激な愛であり、国民の大半が「中流」意識を持つ、中庸を美徳とする国々では、むしろ厄介で迷惑なもの、社会秩序を乱すものなのである。イエスの罪状もまさに社会紊乱であった。
「激しい愛を求める神にかんして、真正なイメージとなるのは、拷問され、処刑される政治犯、それも、聖書で<アナウィム>と呼ばれる貧窮し家を失った者達と、連帯しながら死ぬ政治犯である。ローマ人は、十字架による磔刑を、もっぱら政治犯のためだけに適用していた。
「この<アナウィム>とは、地の屑である。イエス自身も、つねに彼らの代弁者として提示されてきた。イエスの死と地獄めぐりは、狂気と恐怖と不条理と自己放棄への旅である。なぜならそこまで深くきりこむ革命だけが、私達の悲惨な状況に答えてくれるからだ。」
「高度資本主義社会は、内在的に無神論的である。パッケージ化された充足、管理された欲望、管理された政治、そして消費経済からなるこの社会が、ある程度の深刻さをともなった政治的・道徳的問いかけをはなから締め出しているのだ。こうした環境下では、そもそも神の意味はあるのだろうか。それがイデオロギー的正当化、精神的ノスタルジア、価値なき世界から私的領域へと解放されるときの手段以外に、いかなる使い道があるというのだろうか。」
さて、第1章についてだけで、ここまで来てしまいました。まだまだ考えさせられるところはいくらでもありますが、きりがないので、あと一つだけ。
第3章は、「信仰と理性」と題され、理性と、理性を支える(あるいは暴走させる)理性以前にあるものとの関係が考察されます。デリダも引き合いに出され批判されますが、「信仰と理性」というテーマ自体、そもそもデリダが問題化することによって近年再浮上してきたテーマで、イーグルトンの議論も、デコンストラクション(脱構築)出来ない(脱構築以前の)「正義」とか、他者とコミュニケーションを始める以前に既に発せられている「yes」といったデリダが提示した考えの上に乗っかっていることだけは指摘しておきたいと思います。イーグルトンも、どうしてもデリダに対しては素直になれないようです。デリダは、パソコンも普及していない時代に、ジョイスの『ユリシーズ』の英語版とフランス語訳に、何回「yes」が出てきたか数えて比べた程の「肯定」(affirmation)の思想家でした。
こないだのビデオでも言っていたように、デリダにとっての祈りは、自分の中のある一部を肯定affirmすることでもあるのです。
日本人のように、神と仏の区別もつかない人種でも「祈り」ます。日本人が祈る時、誰に対して祈っているのでしょう。「洗礼」も「割礼」も知らない世界でも類まれなる無神論者の日本人は、祈る時、何を信じているのでしょう。日本人は、何かを信じることができるのでしょうか。「信じる」という行為を知っているのでしょうか。
バッハのヨハネ受難曲の冒頭部分でも貼っておきましょう。受難というのは英語でPassionであり、もう日本語にもなっていますが、passionは、ふつうは「情熱」と訳されます。われわれちんけな人間の罪を一身に背負って十字架に釘で打ちつけられ、血行障害で死んだ人間(神の子)の情熱がPassionです。(パッション八良のパッションは健在なのでしょうか?)
http://www.youtube.com/watch?v=QJ0Vgb99tsQ&feature=related