サラリーマン時代、アバド、ベルリンフィルの『トリスタンとイゾルデ』を見に行ったことがあります。
 アバドが胃癌である事を公表する直前に来日した時の公演です。私は知り合いから、その時アバドが重い病気を抱えているという話を聞いていました。
 日本までやって来てオペラなんか振ってる場合ではない、ということは関係者全員の暗黙の了解だったようです。ベルリンフィルの楽団員達は、オペラの開演直前までコックピットで各々練習していたし、幕間の休憩時間にも練習していました。ただならぬ緊迫感が漂っていました。アバドの文字通り命を賭けた気迫のようなものが、団員達にも伝わっていたのでしょう。

 アバドが命を賭けた渾身のトリスタンは、恐ろしく冷たい、氷が燃えるような演奏であり、演出でした。
 トリスタンとイゾルデは、全幕を通じて交わることなく、抱き合うことはおろか、手を握ることもありませんでした。
 あたかも現代という時代の不毛な愛を象徴するような、寒々とした空気に覆われていました。

 ラストシーンのイゾルデの愛の死も、死んでしまったトリスタンへの愛の絶頂で恍惚のうちに死ぬというよりも、不毛な愛の果てにおかしくなったイゾルデの狂気のモノローグのような演出でした。

 2幕の最後、妻であるイゾルデと信頼していた忠臣トリスタンの不義を知ったマルケ王の独白は、まるで『パルジファル』のアンフォルタス王の嘆きを聞いているようで、舞台横の日本語の字幕を追いながら、『トリスタンとイゾルデ』にこんな台詞あったっけ、と思っていたのですが、うちに帰って台本を見ていると、どうも台詞を変えていたようです。(演出家によっては台詞を変えることも珍しくないようです。)

 全編現代的で、凍えるようなトリスタンでしたが、このような冷え切ったトリスタンを、命を賭けた気魄の演奏で聞かせるアバドに、現代音楽の伝道師でもある彼の気骨を感じました。

 アバドは私が好きだと思う指揮者ではありませんでしたが、あんなに冷たいトリスタンの演奏に命を賭けられる人間は只者ではないと思いました。
 まあ、もっと本を読んだりヨットに乗ったりしたいと言ってベルリンフィルのシェフを降りるのも只者ではできないことですが。