昨日は、イラン人女性の手になる日本語の小説『白い紙』について書きました。日本文藝家協会の編による『文学 2010』の中では、私にとっては、一番「面白い」作品でした。
「面白い」という表現が良いのかどうか、他に良い形容詞が見つかりません。ただ、多くの人に読まれるべき作品であると思います。
勿論、人に何かを読むことを強制することは出来ません。であるとすれば、確率的に、より多くの(より良質の、あるいはより悪意を持つ場合もあるでしょうが)読者に読んでもらうためには、日本語よりも英語で発表されるべき小説であったのではないか、という可能性を考えてしまいます。勿論日本語で書いてくれたお陰で、我々日本人はこの作品に直接アクセスできる特権に浴することができたわけですが。
それにしても、この小説の作者は、何故日本語で小説を書いたのでしょうか?これだけの日本語が書けるということは、彼女が、これ以上の英語を書く能力をもっていることを示唆していると思えます。今現在の彼女の英語力がどの程度のものなのかは知る由もありませんが、論文程度の英語を書く能力なら今既に備えているだろうし、日本語で小説を書く程の語学力と精神力をもってすれば、英語で文学作品を生み出すことに何ら問題はないと思います。
何故彼女は日本語で書くのでしょうか?日本語というのは、彼女にとって何か特別に興味を惹かれる面白い言語なのでしょうか。アラビア語と日本語の間には、何か特別なケミストリーが働いているのでしょうか?それとも、たまたま今彼女が日本に住んでいるから日本語で書いたということなのでしょうか?彼女は特別日本人に好意を寄せていて、そのため特別に日本人のために書いてくれているのでしょうか?
とにかく、日本語以外のより世界的な言語で書くこともできるだろうに、何故わざわざよりによって、世界の端っこに位置し、人口も減りだし、文学を読む人の数も輪をかけて減少し、これから死んで行くような(既に死んでる)国の言葉で書くことを選ぶのでしょうか?
何度も繰り返しますが、彼女の小説は、所謂言語実験の類に属するものではなく、あくまで意味とストーリーに重きをおいた小説です。そして、我々非イスラム社会に住み、イスラムやイランといった文化や社会にステレオタイプのイメージしか持っていない人間に、そこに生きる人々の、より繊細で、複雑で、矛盾を内包した人生の姿を示してくれます。
そして、このような小説は、私は、英語圏でこそ読まれるべきだと思います。そのほうが、好意的なものにせよ、反発的なものせよ、より大きな反響や議論を湧き起こすきっかけとなりうるでしょう。
その議論は、文学的というよりも政治的なものになるかもしれません。しかし、それが彼女の作品に必要なresponseではないでしょうか。
イラン人である彼女の作品は、それだけのことで、必ずしも日本においてのような好意を持って受け入れられるとは限らないし、下劣な誹謗中傷をも巻き起こすかもしれません。それでも、英語圏で読まれることのほうが、こんな世界の端っこで沈没しかけている国で芥川賞なんかもらうよりずっと意義のあることだと思います。
一般論として私は、日本語が母国語でない人が日本語で書いた文学作品には、今の日本語を「ぶっこわす」ような、新しい日本語を創出してもらいたいと期待しています。
明治に始まり、昭和と共に死んだはずの「現代国語」に最後のとどめを刺してもらいたいし、それは自分が既に死んでいることにも気付いていない日本人には無理なのではないでしょうか。
まあ経済的に見ても、これからの日本は、移民をどんどん受け入れて行かざるを得なくなっていくでしょう。こっちのご都合主義で、介護の分野だけフィリピンから来てもらおう、なんて虫のいいこと言ってる場合じゃないことが、このノー天気な国の住人にはまだわかってないみたいです。このまま行くと、今世紀の終りまでに、日本の人口が半分になるという推計もあります。
前にも書きましたが、何とか、日本人の数がトキの数より減るのを見届けるまでは生きていたいとおもいます。「ニッポニア・ニッポン、ニッポンジンを超える」というニュースを見て、最後に笑って死んで行くのが私の夢です。
とにかく、もう日本を「ぶっつぶす」しかこの国が生き残る手段は残されていないのではないのでしょうか。(自民党をぶっこわしただけでもどうにもならないことは、予想されたことながら、既に証明されました。)それまで「日本」に住んでいた縄文人が、(今の我々の先祖である)外来の弥生人によって駆逐されたように、今「日本人」と名乗っている我々は、我々自身を自ら駆逐する他、「日本」を生き延びさせる方法は残されていないと思います。いつの日か、今の日本語が、アイヌの地名のように、意味不明の暗号のように、ぽつぽつと残っている、そんな時代が来ていることは大いにありえることだし、そんな想像をしてみるのも楽しいことです。
「面白い」という表現が良いのかどうか、他に良い形容詞が見つかりません。ただ、多くの人に読まれるべき作品であると思います。
勿論、人に何かを読むことを強制することは出来ません。であるとすれば、確率的に、より多くの(より良質の、あるいはより悪意を持つ場合もあるでしょうが)読者に読んでもらうためには、日本語よりも英語で発表されるべき小説であったのではないか、という可能性を考えてしまいます。勿論日本語で書いてくれたお陰で、我々日本人はこの作品に直接アクセスできる特権に浴することができたわけですが。
それにしても、この小説の作者は、何故日本語で小説を書いたのでしょうか?これだけの日本語が書けるということは、彼女が、これ以上の英語を書く能力をもっていることを示唆していると思えます。今現在の彼女の英語力がどの程度のものなのかは知る由もありませんが、論文程度の英語を書く能力なら今既に備えているだろうし、日本語で小説を書く程の語学力と精神力をもってすれば、英語で文学作品を生み出すことに何ら問題はないと思います。
何故彼女は日本語で書くのでしょうか?日本語というのは、彼女にとって何か特別に興味を惹かれる面白い言語なのでしょうか。アラビア語と日本語の間には、何か特別なケミストリーが働いているのでしょうか?それとも、たまたま今彼女が日本に住んでいるから日本語で書いたということなのでしょうか?彼女は特別日本人に好意を寄せていて、そのため特別に日本人のために書いてくれているのでしょうか?
とにかく、日本語以外のより世界的な言語で書くこともできるだろうに、何故わざわざよりによって、世界の端っこに位置し、人口も減りだし、文学を読む人の数も輪をかけて減少し、これから死んで行くような(既に死んでる)国の言葉で書くことを選ぶのでしょうか?
何度も繰り返しますが、彼女の小説は、所謂言語実験の類に属するものではなく、あくまで意味とストーリーに重きをおいた小説です。そして、我々非イスラム社会に住み、イスラムやイランといった文化や社会にステレオタイプのイメージしか持っていない人間に、そこに生きる人々の、より繊細で、複雑で、矛盾を内包した人生の姿を示してくれます。
そして、このような小説は、私は、英語圏でこそ読まれるべきだと思います。そのほうが、好意的なものにせよ、反発的なものせよ、より大きな反響や議論を湧き起こすきっかけとなりうるでしょう。
その議論は、文学的というよりも政治的なものになるかもしれません。しかし、それが彼女の作品に必要なresponseではないでしょうか。
イラン人である彼女の作品は、それだけのことで、必ずしも日本においてのような好意を持って受け入れられるとは限らないし、下劣な誹謗中傷をも巻き起こすかもしれません。それでも、英語圏で読まれることのほうが、こんな世界の端っこで沈没しかけている国で芥川賞なんかもらうよりずっと意義のあることだと思います。
一般論として私は、日本語が母国語でない人が日本語で書いた文学作品には、今の日本語を「ぶっこわす」ような、新しい日本語を創出してもらいたいと期待しています。
明治に始まり、昭和と共に死んだはずの「現代国語」に最後のとどめを刺してもらいたいし、それは自分が既に死んでいることにも気付いていない日本人には無理なのではないでしょうか。
まあ経済的に見ても、これからの日本は、移民をどんどん受け入れて行かざるを得なくなっていくでしょう。こっちのご都合主義で、介護の分野だけフィリピンから来てもらおう、なんて虫のいいこと言ってる場合じゃないことが、このノー天気な国の住人にはまだわかってないみたいです。このまま行くと、今世紀の終りまでに、日本の人口が半分になるという推計もあります。
前にも書きましたが、何とか、日本人の数がトキの数より減るのを見届けるまでは生きていたいとおもいます。「ニッポニア・ニッポン、ニッポンジンを超える」というニュースを見て、最後に笑って死んで行くのが私の夢です。
とにかく、もう日本を「ぶっつぶす」しかこの国が生き残る手段は残されていないのではないのでしょうか。(自民党をぶっこわしただけでもどうにもならないことは、予想されたことながら、既に証明されました。)それまで「日本」に住んでいた縄文人が、(今の我々の先祖である)外来の弥生人によって駆逐されたように、今「日本人」と名乗っている我々は、我々自身を自ら駆逐する他、「日本」を生き延びさせる方法は残されていないと思います。いつの日か、今の日本語が、アイヌの地名のように、意味不明の暗号のように、ぽつぽつと残っている、そんな時代が来ていることは大いにありえることだし、そんな想像をしてみるのも楽しいことです。