「連続」というと普通何かと何かがつながっているイメージを抱きます。

 しかし、数学の世界での「連続」とは幾らでも(無限に)そこへ近づいて行けるというイメージで、つながっているという普通のイメージとは微妙にズレています。

 例えば整数の集合は「連続」ではありません。-3, -2, -1, 0と次第に1に近づいていきますが、0の次はもう1になってしまうので、これ以上1に近づくことはできません。5, 4, 3, 2と下がっていっても同じです。

 これに対して実数の集合は「連続」です。0.9, 0.99, 0.999, 0.9999と幾らでも(無限に)1に近づいていく数が実数のなかから取り出せますからね。

 では問題です。0.9999999999999999999999999..............と0.の後に無限に9が続く数は、存在するのでしょうか、するとすれば、それはどんな数でしょうか。

 数学者は、0.の後に無限に9が続く数を「1」と呼びます。(0.の後に9が延々と並んで行く数列の「極限」として「1」と呼ぶということです。)

 所謂1と、0.の後に無限に9が続く数は果たして同じ「1」なのでしょうか。

 数学者にとっては同じ「1」です。なぜなら、それを公理(=証明することなくそこから議論を始めていく前提))とすることによって、実数の数学(私たちが小学校から習ってきた算数)が成り立っているからです。

 (厳密にいうと、それで今までのところ不都合が生じることがなかったというだけのこと。)

高校になると微分や積分を習いますが、微積分もすべてこの数学的な「連続」という概念の上に乗っかってなりたっているものです。

 繰り返しますが、私にはどうしてもこの2つの「1」を同一視することが、インチキ臭くてしょうがありません。

日常的には「連続」とは何かと何かがつながっていることをいみします。しかし、ある数とその隣りの数がつながっているというのは変な話です。

 そもそもある数の隣りの数とは、何でしょうか。まあそれは定義次第です。整数なら1の隣りの数は0と2です。しかし、実数となると....

 整数のような「離散的」な数と、「無限」という概念をくっつけることによって、人類は実数という、あたかも現実の時間とか長さを反映したかのような、壮大なフィクションを作り出したのです。

 実数は英語で言うとreal numberですが、私には全然リアルな感じがしません。いかにも、人間が頭の中で作った、人工的な、虚構的な、インチキ臭いもののような感じをぬぐい去ることができません。

 高校の時、虚数iというものを習いました。2乗してマイナスになる実体のない数なので虚数と呼ばれるのだというような説明を聞いた記憶があります。

 しかし、マイナスを掛けることが、数直線上で180度回転することに対応するなら、90度回転に対応する虚数iという数を受け入れることは、私には難しいことではありません。

 それより、どこかに論理的ゴマカシを感じる実数の方が、より人工的、虚構的なものだと思います。

 「実数」の数学体系に今のところ矛盾が生じていないとしても、それを現実の、時間や長さなどと対応させて(同一視して)良いものかどうかとなると、私はむしろ懐疑的です。

 日常生活のレベルでは、今のところ、大きな問題は発生していないとしても、人間くらいの大きさと知能を持った生物がその生活の必要上発明した概念を、超ミクロの素粒子レベルや、超マクロの宇宙全体規模の議論にそのまま適用して良いものかどうか。私の見解はネガティブなものだし、そもそも時間とは何か何て実は最先端の物理学者の間でもいまだに良くわかってないことなんだよね。

 まあ、最も根本的な問題ほど答えが出ないと言う、それでも騙し騙しやっているという、人生そんなもんです。


 話を戻すと、「アキレスと亀」とか「飛ぶ矢は飛ばず」とかの所謂ゼノンのパラドックスと呼ばれるものも、日常的な意味での「連続」と数学的な意味での「連続」の概念のズレと、人間が発明した「実数」という論理システム(あくまで人工的な一つの虚構)を現実の時間や長さや運動を記述するのに適用することのムリに根ざすものではないかと思っています。

 今では物理学でも「人間原理」という考え方が物議をかもしているようですが、私は、世の中(宇宙)は人間の都合の良いように出来ているとは思わないし、もともと人間くらいの大きさと知能を持った生物がその生活の必要上発明した概念で、宇宙の神秘を捉えることが出来ると思うのは人間の傲慢だと思っています。