以下に掲載する文章は、10年近く前、友人が主宰するwebマガジンに掲載させてもらった、私の『HANA-BI』論で、北野武監督の映画論にもなっています。

 いかにも1980年代に学生時代を過ごした人間に特徴的な青臭い語彙、文体で書かれており、今ならこういう風には書かないし、読み返すと恥ずかしい部分もありますが、良い意味で10年間変わっていない部分もあります。

 まあそれだけ進歩していないわけで、まさに私にとっての失われた10年です。

 この『HANA-BI』論をきちんと書き直すところから、私の執筆活動を始め、失われた10年を取り戻したいと思っています。

 原点回帰(これが今の日本社会自体の課題だと思っていますが)の意味を込めて、書き直したい部分も今はぐっとこらえて、あえて10年ほど前掲載されたままの形でここに乗せておきます。

 近いうちに全面改訂をしたものを掲載します。




暴力 笑 non-sense  -『HANA-BI』再考

 

 近作『Brother』に関してたけしは、暴力とは痛いものだということを示したかったと語っている。テレビやゲームの中の暴力は、もはや痛みを伝えない。痛みの隠蔽に懸命となって来た日本人。暴力の表象から痛みを剥ぎ取った時、言葉は重みを失い、生は感触を失った。
  『Brother』では、言葉は単なる比喩として用いられることは許されない。「命を賭ける」との台詞は命を投げ出す行為と等価であり、「腹の中」は実際に腹を切り裂くことによって示される。人は己の言葉に殉じ、痛みが意味の現実性を保証する。シニフィアンの戯れは停止され、言葉は無理やりにも現実に引き戻される。
  たけし映画の主人公達は総じて寡黙である。言葉が無意味な、無責任なお喋りとに堕すことが忌避されているかのように。『あの夏、一番静かな海』では、主人公の二人は、聾唖者として、初めから言葉を奪われている。しかし、それ故、愛は、ただサーフボードを抱えてひたすら行進する二人の姿によってより純粋な形で現れる。言葉とは余計なものなのかもしれない。言葉にすれば全ては嘘に染まるのであれば。
  台詞だけではない。たけしは余分なものを徹底的に削ぎ落とすことを自らの映画作りの原則としている。演技も説明もぎりぎりまで切り詰められる。そして、キタノ・ブルー。あのくすんだブルーは、重く虚しい現実の色だ。ハリウッド映画やトレンディドラマの常套を拒否するたけしは、きらびやかな照明で「リアリティ」をショーアップすることはない。我々の住む日常は、その虚しさ、重さがそのままに映し出される。彼の映画の登場人物達は、我々と同じ光沢のない日常の中を生きている。彼らは、我々以上に直截に、日常性の倦怠とその残酷な無機性に、またそれから逃れ出ようとする試みの不毛さに向かい合う。ナマの現実を覆い隠す虚飾のベールを容赦なく剥いで行くたけしのスタイルは、お笑いから映画まで彼の活動を一貫している。彼の映画は突き詰めて行く。余計なもの一切が削ぎ落とされた後、映画に、人生に残るものは何なのか。

  シニフィアンとシニフィエの強引な同一化による意味の回復、直接的な身体性への訴え、自己犠牲、マゾヒズム、同性愛、といったたけし映画のモチーフは、戦後民主主義の欺瞞性に対する批判とあいまって、彼と保守・右翼思想との近親性を示している。実際、『Brother』におけるオリエンタリズムの逆用や『HANA-BI』における道行、桜、富士山といった道具立ては、ナショナリズムや伝統的な情感に訴える保守イデオロギーのメカニズムに沿うものであり、また、彼自身の言動も最近その傾向を強めている。しかし、たけし映画の最良の部分は、左翼的な理想主義であれ、右翼的な実感主義であれ、単純な物語に回収され尽くすことはない。彼は、単なるキレイ事を語ることはしない。しかし、お定まりの情感に流されることもない。ビートたけしという存在の核にある意地、屈折、プライドは、あらゆる出来合いのプログラムを拒絶する。

  余計なものを削ぎ落とした結果、映画に、人生に残るものは何なのか、それを突き詰めるのが彼の映画のテーマであるなら、彼の映画に残ったものとは一体何なのか。
  ビルの谷間をゆっくりと、自身の速度で旋回を続ける紙飛行機。『Brother』での印象的なワンシーン。カメラはいつまでもその軌道を追う。ストーリー展開とは無縁の、異質な時間。これは削ることのできないシーンなのか。これだけではない。たけし映画お馴染みの、浜辺でふざけ合うヤクザ達。バスケットに興じる彼らの姿も、不必要な程の長時間映し続けられる。
  余計なものを剥いでいくことを原理とする映画は、本筋とは関係のない余計なシーンに満ちている。むしろストーリーの方が、これらの余計なシーンを集める口実をなしているようにも思われる。マフィアの親分の誘拐も、殺すことではなく、連れ回して遊ぶことが目的であったかのようだ。
  こうした余計なシーンの意味するものを明確に規定することは出来ない。何ものをも意味しないのかもしれないし、余りにも多くのものを意味するのかもしれない。旋回する紙飛行機、遊びに興じるヤクザ。これらの無-意味、ナンセンスは、単調な現実の流れを堰き止め、混乱させる。一義的な意味に還元される以前の何か、前-意味とでも呼ぶべき何かを掻き立てながら。

一義的な解釈を、更には解釈自体を拒むnon-senseの集積としてたけし映画を見た場合、『HANA-BI』はその頂点をなす。 HANA-BI。花と火の、異質なものの組み合わせ。花は生、堀部の、火は拳銃、死、西の象徴とみなされる。しかし、必ず散る運命にある花は、生と同時に死の、また全てを燃やし尽くす火は、死と同時に生の象徴でもある。HANA-BIの意味は確定されない。そして、様々な意味の可能性に対して開かれている。 車椅子(車-椅子)に乗る堀部が描き始めた絵(花の頭を持った動物etc)もまたnon-senseであり、HANA-BIである。堀部が不具となった自分の人生の意味を見出すことができないように、あれらのナンセンス画の意味を理解することは出来ない。しかし、彼の人生が何がしかの意味を、可能性を持つはずであるように、ああした絵もまた明確に指し示すことは出来ない何かを意味しようとしている。

  『HANA-BI』の映像は、典型的なキタノブルーで統一され、派手な色彩 の対照はない。しかし、一つ一つのカットの構図やカメラアングルには偏執的とも言えるこだわりが窺える。光沢を欠いた素材は、新鮮な角度から切り取られる。冒頭、斜めに映された天使の絵。車のウインドウに掛かる影。階段の手摺の作る平行線。そして、たけし映画の構図として頻繁に現れる、ゆるやかに曲がっていくカーブ。陳腐な素材が構成するこれらの線は、意味するものは明確でないにしても、何かを喚起する。
  オチの分りきった古ぼけたギャグは、場違いな文脈に置かれることによって、単なる可笑しさとも、単なる悲しさとも異なる形容不能の感覚を呼び起こす。余命幾ばくもない妻と、自らも死を決意した男の道行は、馬鹿を繰り返す珍道中となる。消えたと思った花火が爆発し、セルフタイマーのシャッターが切れる瞬間に邪魔が入る。カメラのキャップを拾おうとして石庭に落ち、撞いてはいけない鐘を乱打する。残された僅かの間、意味が凝縮された時間を過ごすべき時に、ただのナンセンスを繰り返す。しかし、これらの無意味な断片こそが、二人の最後の旅の、更には人生自体の目的であるかのようにも思われる。余計なものを取り去った後に残る無-意味。

  意味の一義性を脱臼させる暴力がnon-senseならば、笑いと暴力とnon-senseの境界は曖昧なものとなる。どこまでが笑いで、皮肉で、善意で、悪意で、はたまた偶然であるのか。
  西(にし-しに)という名前。死者の方角。堀部が撃たれた事を病院で聞いた西は、5階から4階へと階段を降りて行く。
  限られた時間しか残されていない美幸(皮肉な名前でも、ふさわしい名前でもある)が、パズルという時間潰しに没頭する。美幸の煙草を揉み消しながら、「身体に悪いだろ」と西が声を掛ける。また、雪が見たいという美幸に、「風邪ひいたらどうすんの」とも。殆ど言葉を交さないこの二人(美幸は、時折の笑い声を除いては、最後の瞬間まで一言も発しない)の間で寡黙な西が稀に口にする言葉は、皮肉なものとならざるをえない。死ぬ と分っている二人の記念写真も。
  ヤクザから金を借り、盗難車で銀行強盗を働く刑事。パトカーに改造されたタクシー。後部ドアは依然自動で開閉する。偽パトカーに向かって税金ドロボーと叫ぶ男。叫ばれた方は本物の泥棒であり、公務員がドロボーなら、銀行もドロボーに違いない。税金ドロボーの警官は、恐喝の容疑者を殴って自白を強要する。
  パトカーのサイレンは、西に耐え難い記憶を呼び起こす。しかし、そのサイレンを西は、故買屋から贈られ、バックミラーでその姿を確認しながら、音を鳴らして返礼する。そのバックミラーは、美幸の持つトランプの数字を映し出す。
  手を汚す、という言葉がある。西は自分の手を傷つけ続ける。自分を、愛するものを守ることによって。駐車場での若い作業員とのケンカで(映画の初めに現れるこの男の「死ね」という落書きは、西の運命を暗示している)。タイヤにチェーンを装着する際、美幸が誤ってバックさせた車に轢かれて。自分に向けられた拳銃の撃鉄を指を挟み込んで止めることによって。
  愛するものを守るためには、結局は暴力に依らざるをえないこともまたナンセンスではないか。「死んだ花に水やってどうすんだよ。頭おかしいんじゃねえか。」と美幸に声を掛けた男を西は、不必要なまでに徹底的に叩きのめす。からんで来たチンピラの目を箸で突いた時のような過剰な暴力。しかし、適度な暴力というのもまたナンセンスだろう。西と美幸の最後の旅の目的が、死んだ花に水をやるようなnon-senseであっても、それを否定するものは、暴力によって否定される。 
  最後、凧揚げする少女に頼まれて持った凧の手を離さず破ってしまう西。噴出す美幸。一瞬困ったような顔をしながらも、かまわず走り回って凧揚げを続ける少女。表情も変えずに破れた凧の手を持ち続ける西。キャッチボールのこぼれ球をあらぬ 方向に投げ返す冒頭のギャグと対応するこのシーンは、笑いにしても悪意と区別 のつかない。笑うことが憚られる、しかし善悪以前に笑ってしまうギャグともいえないギャグ。そして、人生の最後になされるこの行為の無-意味性。

  ラストシーン。パズルは解かれ4の次の数字が現れる。サイドミラーは追っ手の刑事達の姿を映す。くすんだキタノブルーのフィルターは取り外され、日の光が眩い海と青空が、永遠へと連なる浜辺が映し出される。気の触れた少女が凧を持って走り回る神話的な空間。美幸は西に体を寄せる。それでも西は躊躇して引き金を引けない。「ありがとう。ごめんね。」美幸は初めて言葉を発する。この言葉が西に引き金を引かせる。美幸がただ守られるだけの無垢な存在であることを前提としていた二人の道行というフィクションは、彼女が何も見ていない振りをやめることによって終えられる他なくなる。美幸は、自身を共犯者と認めることにより、自分の責任を果 たす。二人は矛盾を背負い込んだまま永遠の世界の中へと飲み込まれる。