マジでひどい腰痛に耐えながら中百舌鳥で御堂筋線に乗り換える途中、またやってしまいました。

日本神話に関するものと能に関するものと古本2冊、合わせて3000円を投入してしまいました。

失業者初日に何やってんだ俺。

俺の人生この先大丈夫なのか。

こうなったら最初に貰った失業手当で古本買ってやるぞ。

初任給じゃねえっての。

元々神話には興味があります。結局のところ現代の小説にせよ、テレビドラマや映画にせよ、基本的なテーマは神話に出尽くしていると思います。設定や役者があれこれ換わっているだけのような気がします。

私は実は元理系でアインシュタインのような物理学者にあこがれていた純粋な時期もあったのですが、今では科学も自然についてのお話の一つで、基本的には人間の言語のもつ「比喩」の機能に乗っかったものだと思っています。例えば、人間の日常生活から生じた「時間」や「空間」の概念が超ミクロな現象を人間が理解できる形で使えると考える方がおかしいと思います。

さて、能に関してですが、先日日本橋の中古レコードやで能楽のCDをやたら安く売っていたので、能に関心などなかったのですが、なんとなく聴いてみようかなと思って聴いてみたらけっこうはまってしまいました。

ヨー、ポンと掛け声と鼓の間に笛がピーヒョロと鳴っているだけなのですが、何故か聴き入ってしまいました。

織田信長が本能寺でやられる前、「是非におよばず。」と言って、敦盛を舞って自害したという話になっています。本当の話かどうかしりませんが、信長が最後に舞ったといわれる敦盛がどんな能なのかは興味があります。

敦盛の元もとの平家物語の話自体は、高校時代古文の授業で読んだ記憶がありますが、能ではどんな話になっているのか気になっていました。今日買った本を御堂筋線の中でぱらぱら見ていると、熊谷に殺された(熊谷にしてみればしょうがなく殺した)敦盛と、熊谷が再会し、最後は熊谷の心の中で敦盛が行き続けるという、タイタニックみたいな話のようです。

信長と光秀の関係が、敦盛と熊谷のような関係だったとは考えられませんが、もし信長が本当に最期に敦盛を舞ったのだとしたら、その心中はいかなるものだったのでしょうか。

戦国時代というのは所謂下克上で、家臣はおろか、親兄弟でも信じることのできない、日本史上でも特別な時代だったように思います。そんな誰も信じられない時代に生きた人々は、一体何を信じて、何を心の支えにして生きていたのでしょうか。人生の意味なんてどのように考えていたのでしょう。

今の日本も、今まで信じていたものが壊れてしまった、信じられるものがなくなった、という点ではある意味戦国乱世の時代だと思います。

戦国武将や仏像に興味を持つ若い女の子が増えて来ているのも、こうした時代がある種必然的に生み出しているブームかもしれません。

私の若い時には、「神社仏閣を見て回るのが好き。」というのは危ない奴を意味する特徴でした。(ある年代以上の人はこんなことが書いてある葉書を良く見たことがあると思います。)